神々のこどもたち – ロキの息子――悪評高き狼の場合――

 
花京院典明は地下道を下っていった。
彼がここへやってきたのは、単純な好奇心からだった。
何日も前から目星をつけていたというわけでもない。
今日たまたま目に留まり、たまたま入り込んでしまっただけの話だ。
そしてそれこそが、必然だとか運命だとか呼ばれるものなのだろう、と、こんにちの花京院は考える。
彼はそこで、途轍もなく巨大な狼に出会った。
狼というよりは、狼の姿をした何か黒くて大きいもの、と言った方が正しいかも知れない。
狼は体中を太い紐で縛られ、身動きできずにいた。
恐らく花京院の気配に気が付いたのだろう狼が、ひくりと鼻を震わせ瞼を持ち上げたとき、花京院はその目を見ることができた。
ああ、なんと暗い闇の眼光!
光のほとんど届かぬ地下の暗闇の中にあってなお、その瞳は虚無そのもののように暗かった。
「……誰だ?」
狼の声は低く、威圧感に満ちてはいたが、だいぶんかすれてもいた。
長らく喋っていないのだろう、と花京院は思った。
狼が口を利くことには少しの疑問も感じなかった。
このような狼が、人語程度を理解するのは当然であろう。
「ぼくの名は花京院典明。この近くの村に住んでる……人間だ」
狼があまりに大きく、その目があまりに暗かったため、花京院は恐怖など通り越して至極冷静であった。
かの狼の前では、恐怖も嫌悪も感じる暇がなかった。
「人間か。ここは死してもいない人間、それも戦士には到底見えない子供が入ってこられるような場所じゃあねえ。一体どんな魔法を使ったのか気にはなるところだが、今の俺にはそれも関係ねえか。とっとと帰れ!」
 

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花京院は素直に頷いて、出口へと向かった。
しかし途中で振り返り、狼の目をまっすぐ見つめ、
「明日もまた、来てもいいかい?」
と尋ねた。
狼は一瞬目を見開いたが、フンと鼻を鳴らし
「来れるもんならな」
と言った。
それで花京院は、好物の果物をバスケットに詰め込み、翌日も狼の前に現れたのだった。
懲りずに少年がまたやってきたこと、あるいは二度も封印の秘所へやってこれたことに、狼は流石に驚いた。
花京院が魔法使いでもなければまじない士でもないと告げたときには、それでは自覚がなくとも神の血を引いているのだと断言するほどだった。
「詳しいことはぼくには分からないけれど。うちはよくある中流家庭だし、有名な先祖も居ないし。あ、チェリー食べる?」
狼は花京院が差し出した赤い実には一瞥すらせず、
「俺はそういうものは食わねえ」
と言った。
「それではきみは何を食べるの?まさか、人肉とか?」
狼は喉の奥でくっと笑ってみせた。
少なくとも花京院にはそう見えた。
恐ろしげな唸り声が周囲に響いただけにも聞こえたが。
「俺はついにそのときが来るまで、何も食わず、飲まず、ずっとここにいる。それが定めだ」
「そのときっていつだい? きみはそのときには解放されるの? きみはなぜ、こんなところに繋がれているんだい?」
「…お前は『好奇心』の具現か? 父すら厭い、数多の神々に憎悪された俺が、怖くはねえのか?」
「うーん、よく分からないけど。でも、きみのことは知らなきゃいけない気がするんだ。きみのことを知りたい」
花京院が身を乗り出して、彼のことなど丸呑みにできるだろう狼の巨大な口元に近付いたとき、狼は牙をむき出してみせた。
そこで花京院は、己の腕より太いその牙へと手を伸ばし、そうっと、そうっとそれに触れた。
それは地下の冷たい岩より更に冷たく、ひやりと凍えた。
「俺は、人間というものはよく知らないが……お前は俺の知っているどんな人間にも似つかないな。俺は昔、邪悪な存在だとして神々から嫌われた。俺を殺す話もあったようだが、俺の穢れた血で土地を汚すわけにはならないと束縛されることになった。それでこんな有様だ」
「きみは邪悪な存在なの?」
「さあな。俺は何かした覚えはねえんだが、こんだけでかくて火も噴けるっていう存在自体が邪悪と言われたんだから、きっとそうなんだろう」
「ふうん。なんだか身勝手だね。ところできみの言っていた『そのとき』ってやつだけど、もしかして世界の終末のことかい?」
「何だ、分かってるじゃねえか。<<ラグナロク>>にこの戒めが解かれ、俺は世界のあらゆるものを呑み込む。そう宿命付けられている」
「それじゃあきみ、きみはフェンリルおおかみかい!」
「いかにもその通りだ。さあ、これで俺がどんなに危険か分かっただろう。今すぐ引き返し、オーディンやトール、それかあの忌々しいテュールのためにでも祈りを捧げるといい」
フェンリルおおかみが馴染みの神々の名を口にすると、花京院は悲しそうな、困ったような顔をした。
「ああフェンリル、ロキの長子、彼らはもういないんだ!」
「…どういうことだ? ラグナロクはまだだろう? あいつらがどこに行ったって?」
「彼らはもう死んでしまったんだよ。南の地から新しい神がやってきて、皆を殺してしまったんだ」
「何だって? いいやそれは嘘だろう。最後の最後に、俺はとうとうオーディンのやつを呑み込んで、そしてあいつの息子に引き裂かれて殺されることになっているんだ。それが死んだって?」
「本当なんだ。ぼくはフレイヤのための祈り場が壊され、新しい神のための神殿が作られるのを見た。神の子と名乗る人間たちが、オーディンとその妻を侮辱するのを聞いた。彼らはもうどこにもいないんだ」
花京院がそう告げると、狼は低く長い唸り声を喉の奥から発して響かせた。
彼は泣いているのだ、花京院はそう思った。
「それでは俺はどうなるのだ。終焉は来ないのか。俺が呑み込むべき世界は、もう別の神に捧げられたっていうのか」
「新しい神の宣伝係によると、世の終わりには審判が行われ、信仰者とそうでない者に分けられるらしい。きっとラグナロクの予定はないよ」
目を閉じて動かなくなってしまった狼に寄り添い、花京院はふっと閃いたことを口にした。
「ねえフェンリル、この紐、解けないのかい?」
「……解けない。何度も試したが、駄目だった。こいつは魔法の紐なんだ」
「でも、何の変哲もない人間のぼくがきみの元に来られたんだよ。旧来の神々が死んでしまったので、彼らの魔法も弱まっているんじゃあないかな」
そう言って彼は、狼の身に絡まる紐へ手をかけた。
紐は何の取っ掛かりもなくするりと解け、そして狼は解放された。
狼は伸びをしたり歩き回ったりして体をほぐし、信じられないものを見る目で花京院を見た。
少年は静かにほほえんだ。
「ラグナロクは廃止された。世界の終わりでもないのに、俺は自由になった。……俺はこれから、何をしたらいい?」
「きみのしたいことを。そうと定められていることではなく。名前も変えたらいい。君はもう、災いをもたらす怪物、フェンリルおおかみじゃあない」
そこで狼もほほえんだ。とてもぎこちないほほえみだったが、花京院にはそうとはっきり分かった。
「だったら俺の名を、どうかお前が付けてはくれねえか」

 
 

そして狼と少年は、長く連なる世界へと旅立った。
狼はもう邪悪な存在などではなく、その目は希望に萌え出る新緑の色に輝いていた。