僕とボスとその恋人

 
 
 

スピードワゴン財団に勤めだして5年がたった。
僕は研究職に就いていた。
大学院を出てからそのまま財団の研究チームに入った僕は、よくも悪くも研究者体質だったといえよう。
そしておそらくはそれこそが、僕が声をかけられた大きな要因であったと思っている。
成果と数値をこよなく愛し、富も名声も、よい環境で研究を続けるためにあると考えている。
大体そういうことを、僕は財団の何とかいうお偉いさんに述べた。
この財団に入れば、資金調達に困らずにマウスを実験できると思ったんです。
事実その通りで、とても感謝しています。
大学院時代は大変でしたからね。
あ、もちろん財団の理念にも同意しています。
ええと、何でしたっけ……
もういい、と言われて僕は、何かマズイことを口走ったかと不安になった。
本当にいい財団なのだ、首にされては困る。
ところがそのお偉いさんは、僕の心を知ってか知らずか、
「君はとても優秀な研究者だと聞き及んでいる」
と言った。
「そこで君に、とある研究の手伝いをしてもらいたい。前任者に不幸があってな」
「とある研究?」
財団のお偉いさんに呼び出された時は何かと思ったが、研究の話なら興味がある。
「外部には公表していない研究だ。先進的すぎて、現在の倫理観から外れていると思われる可能性のあるものでな。だから君には、この研究に関わる前に機密保持の契約を結んでもらう。もちろん今でも結んでいるだろうが、それより厳しいものをだ」
話がマッド・サイエンスじみてきた。
僕は俄然興味をそそられて、ほとんど叫ぶように「もちろんです!」と言っていた。
そうして僕は、構成図には載っていない部署に配属されることになったのだ。

 
 

その部署には、僕と僕のボスの二人しかいなかった。
重役用のエレベータで地下に降り、静かすぎるフロアの奥で指紋認証と音声認証と虹彩認識を行い、その上でワンタイムパスワードを打ち込んで入った部屋で、僕はボスと対面した。
彼は、なんというか、アンバランスな人だった。
美しい顔をしているが目が妖しく輝いており、よく筋肉のついた体だが日に焼けておらず白く、若者なのか老成しているのか、年齢がよく分からない。
彼はごく簡潔に、「私が君のボスだ」と自己紹介した。
なんだか固い言葉遣いだった。
あとで知ったところによると、彼は日本生まれの日本育ちで、母国語は日本語らしい。
僕が日本語を話せないので、会話は英語であるが。
ボスは一番最初のミーティングで、にこりともせずこう言った。
「単刀直入に言おう。私はある人物を生き返らせる研究をしている。君にはそれを手伝ってもらいたい」
「生き返らせるというと、今は死んでいるんですか?」
「そうだ。10年ほど前に死んだ。だが彼は死ぬべきではなかった。だから生き返らせる」
その言い方は、もしできたら生き返らせたい、とかいう言い方ではなかった。
必ずやるという言い方だった。
「ということは、いろんな死体を普遍的に蘇生させるというわけではなく、その”彼”さえ生き返ればいいんですね?」
「話が早くて助かる。ここまで聞いてしまった以上は、断ることは許さない」
「いいですよ。死者蘇生なんて、そんなのやりたいに決まってるじゃあないですか。これからよろしくお願いします」
僕がそう言うと、ボスはほんの少しだけ空気を和らげた。
このボスは最高にとっつきにくそうだが、最高に研究に前向きだ。
僕はうまくやっていけると確信していた。

 
 

それから僕は、その”彼”と面会を果たした。
若い、まだ10代の少年だ。
ボスとはまたベクトルの違う美形だ。
今回の研究に美醜は一切関係がないから、それはどうでもいいが。
ボスは僕に、彼が生前どんな人間だったかを淡々と語った。
蘇生にあたって必要かもしれないから話すが、本当は大事な思い出を他人に教えたくはない。
そういう喋り方だった。
僕には恋人がいたことはないが、ボスが彼を大事に思っていることは、痛いほどに伝わってきた。
ボスは彼のことが好きだった。
いや、今も好きなのだ。
財団がどうしてボスとその亡くなった恋人を支援しているのかは知らないが、まあそれも僕にとっては大した問題ではない。
当然ここに詳細を記すことはできないが、僕らは”彼”が息を吹き返すよう、様々な研究と実験を行った。
僕はぼんやりと、これが自分の人生の一大事業になると感じていた。
その日が明日来ようとも、永遠に来ないとしても、僕はこの研究に一生を捧げることになるだろう。
前任者はきっと、その一生が運悪く短かっただけなのだ。
僕らは”彼”のことを、Kと呼んでいた。
ボスはちょくちょく本名で呼んでいたが、万が一にも外部の人間に漏れないようにと、僕らの間で交わされる会話の中では、”彼”の名前はKだった。
”彼”の苗字からとったコードネームだ。
Kは普段、専用のコールド・ルームに入っていて、あまり顔を見ることはない。
ボスはよく会いに行っているが。
Kを蘇らせることが最終目標だとしても、毎日彼の体にメスを入れるわけではないのだ。
僕はパソコンとにらめっこしたり、液体を混ぜたり、論文を読みあさったり、マウスを観察したり、その他ちょっと口には出せないことをしたりして、毎日を過ごした。
ボスがKのいる部屋で、優しげな口調で何やら話しかけているのは知っていたが、日本語だから聞き取れないし、特に興味もないので気にしないでいる。
ボスはKに対する態度とは正反対に、生きている人間に対しては非常に口数が少ない。
僕もあまり話す方ではないので助かっている。
食堂には一人がけのテーブルもあるし。
ボスはいつも、僕が帰る時間より遅くまで作業をしているようなので、いつ帰るのかと聞いてみたら、同じフロアの別の部屋が居住スペースになっていて、そこで暮らしているのだそうだ。
食事の時と、気になる映画――Kが好きそうな映画という意味だ――がやっている時、あと財団のお偉いさんの更に上のお偉いさんに会う時だけ地上に出るのだそうだ。
実験用のマウスだとか、新しい実験器具やパソコンのような機器を取りに行くのは、僕の仕事だ。
フロアの掃除は二人でやっている。
このフロアに足を踏み入れるのは、半年に1回くらいのペースでしかやってこないお偉いさん以外には、僕とボスしかいなかった。
この場所は、ただあの美しいKのためにあるのだ。
はじめ僕は、Kの外見なんてどうでもいいと思っていたが、長くここで研究を続けているうちに、この少年に対して愛着が湧いてきたのは確かだ。
こんな大きな息子がいる年ではないが。
それに、Kと僕のボスは、お似合いのカップルだった。
本当によく似合っていたのだ。
Kが目を開いて微笑み、ボスの腰に腕を回さないのが不思議なくらいだ。
もちろん僕らは、その日のために研究をしているわけだが。
「彼の目はとても綺麗なのだ」
とボスは言った。
「私がいっとう好きな色だ。落ち着いた声も素晴らしい。少し高い体温も懐かしいものだ」
そういうボスの目に移っているのは、コンピュータや書類や実験器具にあふれた研究室ではなく、遠い遠い異国の地のようだった。
海か砂漠か、どこか知らないところ。

 
 

あまり頻度は高くないが、Kに直接実験を行うことも、当然ながらある。
そういうときボスは、本当に大事そうに、愛おしそうにKに触れる。
手袋越しなのを悔しそうにしているくらいだ。
ボスからKに向かうものが、愛情なのか執着なのか、僕には判断できないけれど、そういう感情を生み出す電気信号は、似たようなものなんだろう。
僕はそんなボスのためではなく、もちろん眠り続けるKのためでもなく、ただ自分のため、神の領域に踏み込むために、研究を続けている。
それでもやはり、二人がまたお互いの目を見つめて微笑み合える日が来るなら、それはとても素晴らしいことだと思う。
日本語だから僕には分からないが、今日もボスは、Kに優しく語りかけている。

 
 

「また僕を抱きしめて、緑の瞳を見せておくれよ、承太郎―――」