デジタル・エメラルドはバイトの海に

 

「……やあ承太郎。今日の調子はどうだい?」
「よう花京院。いつも通り、お前のおかげで絶好調だぜ。」
「それはよかった」
 
部屋の中央、大きなモニタがある横に置かれたスピーカーから、重低音の声が響いた。
次いで、その隣のプロジェクタから光が出て、それは一人の大柄な男性の立体映像を形作った。
身の丈は2メートル弱、ギリシャ神話の登場人物と見紛う美しい顔に、しっかりと筋肉のついた体……
当然ながら『彼』は実在の人物ではない。
『彼』はここ、スピードワゴン財団で様々な情報を一元管理しているマザーコンピュータ、その名もJOJO IIIである。
JOJOというのはこのコンピュータの商標名である。
その3台目となるJOJO IIIは、個体名を空条承太郎といった。
まるで人間のような名前だが、それは意図されたことで、親しみやすいよう人間らしい名と、映像ではあるが外見を与えられているのだ。
そしてその承太郎の、映像ではなく本体のコンピュータ群にアクセスしているこの若い男こそが、コンピュータの保守を行うエンジニア、花京院典明である。
システム開発やそれに関するプロジェクト・マネジメントを行っている上司は別にいるが、保守を任されて5年、花京院も信頼されて、こうして一人で承太郎に会いに来るほどになっていた。
それにしても、と定期のシステム可動状態チェックを行いながら、花京院は考える。
5年前は可愛らしい少年の姿のビジョンだったのに、どうしてこんなに大きくなってしまったのか。
 
「おい、何を考えてる?」
「君のことだよ。あんな美少年だったのに、随分大きくなっちゃったなあと思って」
「誰のせいだと思ってやがる。」
「あーあー分かってますよ。僕だろ。君が成長したらこんな姿になるだろうなとか言ったのが悪いんだろ。お陰で僕の好みドンピシャだよ。想定よりずっと美形だけどな!!」
「そいつァよかった。」
承太郎はくつくつ笑っている。
花京院は持ってきていたコーヒーを手に取った。
チェックには問題がなかった、ここからは楽しいお喋りの時間だ。
これは何もサボりだとかそういうものではなく、承太郎の学習に必要な、大切な仕事なのだ。
話題は花京院が持ってくることもあれば、承太郎の方から振られることもあった。
今日の話題は、社員食堂のメニューについてだ。
食べ物については、味覚のない承太郎にはよく分からない話だからと、花京院から話し始めることは実は少ない。
承太郎の方が興味を持って話しかけてくるのだ。
今回は、先日行われた食堂へのアンケートを受けての話題だった。
当然そのアンケートは社内ネットワークを用いて行われたから、つまり、承太郎にもその動向がよく分かっているというわけなのだ。
 
「味そのものは好評のようだな。」
「ああ。3年くらい前だっけ?業者が代わってからかなり美味しくなったよ」
「1187日前だな。」
「そうか。僕としてはサラダバーが気に入ってるな。好きなの詰め込めて」
「いつも同じもの食ってんじゃあねえのか?」
「失礼だな。その日の気分によって結構変えてるんだぞ。ただ僕としては、メインに辛いものが多いという印象があるな。僕は辛党な方なんだけど、たまに辛くないものを食べたいと思ったときに選択肢がひとつしかないことがよくある」
「その意見は153件着てたな。メニューの組み合わせを考えなおすんだそうだ。」
「君に味覚があるのなら、甘党か辛党どちらだろうね?」
「お前に合わせて辛党にするぜ。」
「するぜって、こういうものは自分で決められないんだよ。でも、うーん、幼少時代の食生活とか関係してそうだから、決めてから取りかかれば…?」
「とにかくそうするぜ。それでお前と同じものを食う。」
「食堂はビュッフェ形式だから、好きなものを選べばいいんだよ。あ、好きなものと言えば…」
「何だ?」
「デザートにチェリーが少ない気がする」
「その意見はお前しか出してねえな。」
「ぐう」
 
承太郎はコーヒーに口をつける花京院の頭をぽんぽんと撫でるような動作をした。
それは花京院が、幼いころの承太郎によくやっていた仕草である。
今ではもう身長が逆転してしまったから、こうして承太郎が撫でるばかりなのだが。
 
と、そこへピロロと間抜けな音が響いた。
会話の時間の終わりを告げるアラームだ。
花京院は基本的に24時間体制で承太郎を監視しているが、一日中この轟音と温風の部屋でお喋りしているわけではない。
こことは別の(と言っても同じフロアだが)集中管理室で承太郎の様子をチェックしながら、他の軽めの業務をこなすのが常だ。
花京院はコーヒーを持って立ち上がった。
承太郎も立体映像非表示のプロセスに入る。
 
「じゃあ、またね、承太郎」
「ああ、花京院……愛してる。」
それは承太郎が最近覚えた別れの挨拶だった。
『彼』に好意を向けられるのは、悪い気分ではない。
 
「ああ、僕も愛してるよ」
そう告げて、花京院はコンピュータ・ルームのドアを閉めた。

 
 
 

その日は、財団目黒支部の入退室システムにアップデートがあり、更新作業が終わってテスト作業の後半に入った、2日目だった。
どれほど綿密にテストをしても、大きな更新の後には必ずバグが発見されるものである。
もちろんそんなバグを外に出すわけにはいかないから、実際の運営と同じシナリオでテストを行う必要がある。
テストの後半は承太郎の機能制限も取り払われ、実データでの試運転を行っているという状況だった。
そしてその過程で、ひとつ警告が発見された。
警告は不具合(バグ)未満の存在であり、無視してもシステムは稼働する。
現在の設計や記述に比べて、より良いものが検出されたときに警告として表示されるのだ。
花京院はそれを受けて承太郎のいるコンピュータ・ルームに赴いた。
制御を行う一角の専用チェアに腰掛ける。
目の前には、コードがたくさん伸びた小さな箱がある。
花京院はその箱の物理ロックと電子ロックを外した。
それから、ぱちり、ぱちりと一本ずつコードを取り出す。
コードの先端は、何か別の機械に差し込むための形状にはなっていない。
そこはごく小さな針に、これも小さな板が付いたような形になっており、微量の電流が流れるようにできていた。
それらを自分の頭の上、所定の位置に貼り付ける。
ぴりぴりと、頭に電気を感じた気がしていたのは、もう随分と昔の話だ。
花京院は承太郎と『繋が』って、その中へと潜っていった。

 
 

ダイブした先には、長い長い廊下があり、その両側には無数の扉が付いている。
初めて来た時は0と1があふれているばかりだったので、もっと人間に分かりやすいようにしてくれと花京院が頼んで、こんな形になったのだ。
リスクが高すぎるので花京院はやったことがないのだが、人の脳内に潜ると、もっと実世界的かつ混沌とした世界が広がっているのだという。
まるで夢の中だ、と。
それとは全く異なる、理路整然とした世界。
ご丁寧に、今回メンテナンスが必要な『部屋』の扉に、「HERE」の文字まで浮かんでいる。
花京院は現実から持ってきた『地図』と見比べながら、その扉を開けた。
 
結論から言うと、修正はすぐに終わった。
もともと致命的なものになりうるバグは潰されているし、簡単な警告だけだったからだ。
潜る準備やプロセスを除いた修正そのものは、10分とかからなかった。
扉を開けて部屋から出ると、そこには承太郎のコンピュータ・グラフィックのビジョンが用意されていた。
花京院はそれに向かって微笑んだ。
「やあ承太郎、メンテはもう終わったよ」
「ああ、助かったぜ。」
承太郎のCGは笑みを見せた。
「まだ時間はあるか?」
「え、あるけど、どうしたんだい?」
「お前に見て欲しいものがある。」
そう言って承太郎は通路を歩き出した。
花京院は首を傾げながらも彼の後を追った。
彼がこう言うということは、内部で発見された、けれど重要度はそこまで高くない警告か何かがあるのだろう。
 
たどり着いた『部屋』には、鍵と、それから「Make Up Room<掃除をお願いします>」の札が下がっていた。
花京院は懐を探り、この扉の鍵を取り出した。
ちなみに承太郎のマスターキーは、上層部からの許可が下りた時だけ、それも二人以上でなければ使うことができない。
 
がちゃり、ぎい、ばたん。
部屋の中は薄暗かったが、花京院と承太郎が中に入ればすぐに明るくなった。
花京院は部屋を見渡した。
機械のたぐいは何も置かれていない。
あるのはただ、地下へと続く階段、それがぽっかり口を開けているだけだ。
階段は長く続いているようで、覗きこんでみても地下室がどうなっているか見えなかった。
花京院は眉をひそめた。
 
「この下にいったい何があるって言うんだい?…いや、僕をこんな、『下』に入れてしまってもいいのか?」
「花京院。」
承太郎の、ほんの少しだけ不安そうな声に、花京院ははっと顔を上げた。
「……花京院、お前にしか頼めないんだ。」
承太郎の緑の瞳が揺れている。
この色は駄目だ、花京院は思った。
自分はこの色に、めっぽう弱い。
今もため息を付いて首を振り、「分かったよ、承太郎」などと言ってしまっている。
承太郎のホッとした顔に見送られて、花京院は地下へと足を踏み入れた。

 
 
 

階段は長かった。
下へ行くに連れ背景はどんどん黒っぽくなっていくが、階段や花京院自身が光っているため暗いとは感じない。
更に降りて行くと、背景にきらきらと輝く緑色のものが浮かんでくる。
質量も何もない、ただ輝くデータのエメラルド。
その間を赤いものがころころと転がってゆく。
そこはとても心地良い空間だった。
もう少し降りて行けば、どこか聞き覚えのある音楽が………んんん?
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってくれ承太郎、ちょ、ちょっとあれはやめてもらえるかな」
右下の方で、可愛らしい声で歌を歌っている女の子は、あれは花京院が昔から好きなアニメの登場人物に他ならない。
それから左の方に、昨日見たアニメに出てくるロボットが何やらカッコいいポーズをとっている。
テレビでは見たことのない動きだが、あれはどう考えても、花京院が頭の中で妄想したやつだ。
隣に、この前完成させたフィギュアまで置いてある。
あわあわしていれば更に増えていく。
胸の大きな女の子が戦う構えをして、それから服が破けているのとか直視できない。
原作絵より少し胸大きくないか?
僕の趣味がそのまま反映されているのか?
うわあつらい。
「やめる?どうしてだ?お前の好きなものだろう。」
「そうだけど!あそこのチェリーパイとかものすごく美味しそうだけど!恥ずかしいだろう!!」
「恥ずかしい?何がだ?」
「だからね、僕の心の中をそのまま映してくださるのはやめていただけないかな!?僕の……ああああああああ!!!!???」
「何だ?」
「あれ!!あの左下の方の…あれ!あれだけは無理だ!!やめてェェェェェ」
「いいだろ別に、お前の動きのキレが、」
「だからこそだろ!!やめてくれ僕の黒歴史なんだ!!」
「よく分からんがお前がその辺のフォルダに意識を向けるから、」
「ああああああんなものまで!!?僕だって忘れてたのに!!」
花京院は頭を抱えてうずくまった。
「何だ!?何が起こっているんだ!?……いや」
花京院ははっと顔を上げた。
「いや。本当に、何が起こっている?何故ここに僕の中身が反映されている?」
「お前の脳とリンクしているからだぜ。」
承太郎のビジョンは今や、花京院の前を宙に浮いていた。
「そういう意味の何故、じゃあない」
そのビジョンと目を合わせ、花京院は立ち上がって背筋を伸ばした。
「ここは君の『地下』だろう。ここに僕を反映することは、技術的には簡単だろうが、そうする理由が分からない。何故『僕』だ?ここは『君』では、」
花京院は目を見張った。
承太郎の目はいつもと同じ緑色だった。
いつもと同じ、きらきら光る緑色。
この世界の背景を埋め尽くす色。
僕の好きな色。
僕の好きな……
花京院はがばと後ろを振り仰いだ。
階段があり、その上に入ってきた扉があり、そんなもの、もう存在しないと知っていた。
花京院の足元にあるのは一枚の板だ。
木目も金属光沢も、サビも凹みもない、データで出来た小さな板。
それだけだ。
彼の前にも後ろにも、上にも下にももう、道などどこにもなかった。
「……承太郎、僕をどうする気だ」
「花京院?どうしてそんな顔をする?ここにはお前の好きなものばかりを詰め込んだんだぜ。」
「そんな世界を君の中に作って、何がしたい?」
花京院はまっすぐ承太郎の目を射抜いた。
このシステムは明らかに不具合、それも大きな不具合を起こしている。
止められるとしたら僕だけだ。
「………やれやれだぜ。」
承太郎は帽子のつばに手をかけた。
「お前の方から帰りたくないと言い出すのを待ってたんだがな。」
彼はぎらりと笑って帽子を脱ぎ去った。
途端、世界が真っ暗になり、花京院の足元の板がぱっと消えた。
反射的に上げた腕を、がしりと承太郎がつかむ。
「俺のバイトの海に落ちちまったら、二度と戻っては来れねえぜ。」
「ここにいたって同じだろう。離せ承太郎。そして僕を現実世界に戻すプロセスを開始するんだ」
「そいつァできねえ相談だな。」
言うと、承太郎は花京院の腰に腕を回してぐいと引き寄せ、花京院の意識ビジョンの唇の部分に、自分のビジョンの唇でアクセスした。
驚いて固まった花京院が、これはキスだと気付いた瞬間、それは重さと熱と湿り気を持った。
「ん、んぅ…ッ」
今生まれたばかりの承太郎の舌は熱く、花京院の口内を好き勝手に蹂躙した。
「ん、ッン…!……は、ァ…。……承太郎、どうしてこんなことを…」
「なあ花京院。」
承太郎の黒い体は、背景とほとんど同化してしまって、輪郭がよく分からない。
その目だけが、緑色に光っているばかりだ。
「俺はお前のことが『スキ』なんだ。だからずっとここにいて欲しい。いいだろう?」
その目が燃えるような緑の目をしているのは、僕が好きな色だからだ。
昔から緑は好きだった。
キラキラ光る緑色。
ほとんど強迫観念に近い。
それを漏らしたのは、初めての『会話』の中でだった。
その場で彼は、自分の眼の色を緑色にしてみせた。
僕はそれを、褒めたのだっけ?やめろと言ったのだっけ?
………僕はどうして、緑色が好きなのだっけ?

 
 
 

フロア中にアラートが鳴り響いている。
警備員たちは皆して困惑している。
なぜならそこには、鍵のかかった扉も、危険な爆発物も何もないのだ。
そこにあるのはただ、何十本ものコードを体中から垂らして目を閉じた、静かに静かに目を閉じた、一人の青年の体だけだ。
今はかすかに息をしているだけだが、これまでに何度か無意識で暴れたのだろう。
体は椅子から転げ落ち、腕や足にコードが絡まっている。
コードを外してしまってどうなるか分からないのだろう、警備員たちにできたのは、手足を締めていたコードを緩めることだけだったようだ。
花京院の上司のエンジニアと責任者の重役が到着した時、花京院はまだ死んだように眠ったままだった。
 
「……死んどるのか?」
「いいや、息はある」
上司はモニタを覗きこんだ。
そこに映るのは、年の割には若い、なかなかに整った顔だ。
「息は、ある」
「何がないんじゃ」
重役は花京院の寝顔を覗きこんだ。
「意識がねえ」
二人とも、上司が切羽詰まって、口調が昔のように砕けてしまっているのにも気付かないようだ。
「戻せないのか」
「顔を叩いて戻せるもんじゃあねえんだ。それができるのは、意識が本人の中に沈んでいる時だけだ。今コイツの意識は、こっちにある」
上司は目線を機械群に向けた。
部屋いっぱいに広がった、JOJO IIIの稼動音。
部屋全体を水が循環して冷却している、あらゆるところでファンが回っている。
この中に、これが展開している二次元の世界に、そのどこかに花京院がいる。
 
「コードを抜いたらどうなるんじゃ」
「死ぬな」
「死ぬか」
「いや、語弊があるな。今こうして息はある。コードを抜いても体がすぐ死ぬことはないだろう。だが決して意識は戻らない。一旦抜いて切断してしまったら、次に同じように接続しても、同じ状況になるなんてこともないだろう」
「…そうか」
「そうだ。……どうする、ジョセフ」
上司は重役をファーストネームで呼んだ。
会社では決して呼ばない名だ。
つまり今彼が尋ねている相手は、この財団の重役ではなく、一人の人間だということだ。
重役はため息を付いて首を振った。
 
「花京院のご家族の連絡先を教えてくれ」

 
 
 

花京院の上司、つまり世界でもトップレベルのエンジニアは、部下を助けるべく何度も承太郎の中へ潜った。
けれどそこには、業務に必要な最小限の世界があるばかりで、花京院の意識らしいデータはどこにも見当たらなかった。
承太郎が用意したCGビジョンと直接話したこともある。
 
「花京院をどこへやった?」
「開口一番それかよ、クソジジィ。」
「おれは花京院の話をしている」
「俺は仕事はきちんとやっているだろう?」
「今は仕事の話はしてねえ」
「怖ぇ顔してんなよ。あいつは幸せにしてるぜ。」
「どこに花京院を格納してる」
「さあな。」
 
そうして上司の目の前に、一つだけ扉が現れる。
その中にあるのは、その時その場で手を加える必要のある、小さな小さな部品だ。
上司が作業を終えて立ち上がった途端に世界はガラガラと崩れてゆき、意識切断のプロセスが開始される。

 

JOJO IIIにアクセスできるエンジニアなど何人もいない。
上司は何度だってアタックした。
重役が、彼が電脳に麻痺するのではと心配して、頻度の上限を設定したくらいだ。
花京院の体は今、コンピュータ・ルームの一角にベッドを運び込み、そこに横たえられていた。
口と腕に、彼の命を繋ぐための線が通っている。
けれど彼の体から伸びるコードのほとんど全ては、承太郎に向かっている。
あるいは、承太郎の方から花京院へと、無数のコードが伸ばされている。
そうして彼らはリンクしている。
彼らは彼ら以外の世界から分かたれることはない。

 
 
 

上司の挑戦はもう、数年に及んでいた。
今日も彼は、老兵とは思わせない目をして、承太郎にダイブした。
その先で彼は目を見張った。
今日の承太郎の世界には、扉が二つあった。
ひとつは今まで散々見てきた、質感のない銀色の扉。
そしてもうひとつは、木目の入った緑の扉だ。
「どうして…」
上司の呟きに、承太郎はCGを出現させた。
「あんた、今日で定年だろ。もう俺にはアクセスできなくなるんだろう。…花京院が、礼を言いたいと言ってる。」
上司は緑の扉を開けた。
そこにいるのは、数年前と少しも姿の変わらない、花京院だった。
「花京院……」
「すみません、シーザーさん。僕のせいで何年も。」
「お前のせいじゃあない。承太郎が悪いことだ」
「ええ、そうですね。きっかけはそうでした。」
「きっかけ?」
上司は花京院を見つめた。
今ここでこうして彼のビジョンを見せているのは、花京院本人ではなく、承太郎だ。
コンピュータである承太郎には、老いというものは理解できないのだろう。
「ええ、初めは承太郎が僕を閉じ込めていました。デッドロックの発生する、絶対に解けないアルゴリズムのメソッドを何重にも鍵にして、外に出さないで……だけど僕、気付いたんです。気付いてしまった。」
「何に?」
「僕、昔から緑色が好きだったんです。理由は特にないんですけど。でも別に、この緑色だっていうのはなかったんですよ。」
そう言って彼は、背景に目を落とした。
黒い中に、きらきら光る緑色の宝石のようなオブジェクトが散りばめられている。
「僕が好きな緑色は承太郎の色。承太郎の色だから、僕はこの緑が好きなんです。」
花京院は困ったように笑った。
「ジョースターさんには迷惑をかけて本当に申し訳ないのですが…。」
「帰ってくる気はないんだな」
上司は強い口調でそう尋ねた。
「はい。」
花京院も真剣な表情だった。
「僕はここに残って…承太郎を幸せにしてやると決めました。」
「……そうか」
「ええ。ですから、僕の体の方は、これ以上維持してもらわなくても結構です。僕はあれを、捨てることに決めた。全ての生ある実感を、彼と引き換えることに決めたのです。」
「ま、お前が体を衰弱死させていいと思っても、アイツが許しゃしないさ。たとえもう二度と、目を覚まさないことが分かっててもな」
「すみません、本当に…。」
「そのくらいはさせてやれ」
上司はふっと表情をゆるめた。
「おれはもう行くぜ。……お幸せにな」
「はい…はい!」
その笑顔があまりにも、それこそとても幸せそうだったから、上司は扉に手をかけて待っている承太郎に向かって肩をすくめてみせて、そうして愛の巣から出て行くことを決めたのだった。