空条承太郎はジョースター王国の王子である。
彼の容姿は詩にうたわれるほど美しく、若いながらも政治手腕に長け、狩りの腕前も一流で、そっけない態度を取ってはいるが心の真っ直ぐな正義感だった。
当然そんな彼を人々が放っておくはずがない。
国内外問わず貴族や王族はどうにか娘を嫁がせたいと思っていたし、その娘たちも皆こぞって承太郎にお熱だった。
彼に手が届かないことが分かっている町娘たちだって、いつも承太郎の話題を口に上らせていた。
男たちも、承太郎が剣も弓も手足のように使う素晴らしい戦士であることを知っていた。
彼は国の誇りだった。
だがその分、よくない虫たちも引き寄せられていた。
国王と后は彼の身を案じて、個人的な友人でもある隣国の王と相談し、その息子を許嫁にもらうことに決めた。
男同士なのはさしたる問題ではない。
信頼できる魔法使いか魔女にでも頼んで子供を授かればよろしい。
承太郎としては、顔も知らない――名は花京院典明というのだと聞かされた――青年と結婚するなど気の進まない話ではあったのだが、親の好意を無下にすることもできず、とにかく一度会ってみては、という場には出席してみることにした。
さてその日、引き合わされた青年はなかなか整った容姿をしていたのだが、承太郎よりもずっと気が進まない様子であった。
自己紹介ははきはきしていたし、話してみれば利発な感じで承太郎としては好印象であったが、いざ婚姻の話となるとあからさまに渋った顔をして、歯切れの悪い返事しかしないのだ。
これは破談になるな、と承太郎は思った。
だがこいつの人となりは悪くない。
友人くらいにはなりたいものだ。
二人の心など気にもとめず話はとんとん進み、なぜだか「あとは若いお二人で」などと言われて、二人きりで城の中庭に放り出された。
「……承太郎様」
「様はいらねえ。位は同じだろ。かしこまった喋り方をする必要もねえぜ」
「じゃあ、承太郎。悪いけど、僕はこの縁談……」
「分かってる。国同士の決めごとだから難しいかもしれんが、断ってくれて構わねえ」
「申し訳ない。でもそうさせてもらうよ」
「ああ。……他に好きな女でもいんのか?」
「いや、そういうわけじゃあないんだが」
花京院はちらりと横目で承太郎を見た。
「これは親にも話していないことなんだが、不思議と君には話せる。実は僕、人間相手にはそんな気分にはならないんだ」
「ほう?」
「異常性癖ってやつなんだろうな。獣、特に大きくて鱗の生えた生き物にしかぐっと来ないんだよ。ドラゴンとかワイバーンとかだね」
「そうなのか」
なぜか嫌悪は感じなかった。
彼が困ったように眉を下げて、微笑しながらカミングアウトしたからかもしれない。
それならそれで、と承太郎は思った。
それならそれで自分と彼は普通の友人になればいい。
そうして二人は、結婚こそ断るものの、よい付き合いができそうだ、と思った、の、だが。
二つの国が結びつくのをよく思わない者たちも、いくらかいるのだ。
承太郎と花京院が中庭で語らっていたそのとき、一羽の鳥が空から舞い降りてきた。
庭に鳥が来るなんて珍しくもなんともないから、二人はすっかり油断していた。
鳥は突然、承太郎の頭に飛びかかり、隠し持っていた瓶の中の薬品を彼に振りかけた。
「ぐゥッ……!?」
「承太郎!?」
頭を抑えてしゃがみこんでしまった承太郎の代わりに花京院が手を伸ばしたが、鳥はそれをすり抜け彼方へ飛んでいってしまった。
「くそッ!おい承太郎、大丈夫か!?」
「う……グ……」
花京院の声は、承太郎に届いていないようだった。
「ぐ……、ッガル……!」
彼は唸りながら震えていたが、最後に大きく「ガァァアアァッ!!」と吠え声を上げ――
そして、花京院は見た。
承太郎の体が膨れ上がり、口が裂け、爪が尖り、みるみるうちに体中から黒い鱗が生えてくるのを。
仕上げとばかりに大きな翼と太い尻尾が生え、そこにいたのはもはや人間の美丈夫ではなく、一匹の黒く光るドラゴンだった。
承太郎はかぶりを振って意識をはっきりさせると、自分の体を見下ろした。
ずいぶん遠くなった芝生に爪を刺している、黒い鱗の並んだ腕。
彼はすぐに状況を理解し、ため息をついてから翼を広げ、初めてだというのになめらかにそれを動かして宙に浮き、そのまま城から飛び去った。
騒ぎを聞きつけた衛兵たちがバタバタと中庭に集まってきたとき、花京院はまだ放心状態だった。
「典明様!」
「ご無事ですか!」
「どうなされましたか!」
「………イケメンだった」
「は?承太郎様はどちらに!?」
「……………キスしたい」
「典明様!?何があったのですか!?」
その辺りでようやくはっと我に返った花京院は、王たちと城の魔術師を呼ぶように指示を出した。
中庭に残っていた薬をお抱えの魔術師が調べて分かったことは、古典的ながらも強力な呪いをかけられた、ということだった。
「この手の呪いは、解呪に難しい手順は必要ないのです。その分とても強く、自然には解けません」
「ではその解呪の方法は?」
「ムゥン……」
魔術師はちらりと花京院に目をやった。
「……愛する人からキスをもらうこと、ですな。簡単かつこれ以上なく大変なことだ。『愛する人』がすでにいる場合は、化物になったことで愛が冷めるかどうかという試練が課せられる。いない場合は、魔物の姿で愛し合える相手を探さねばならない」
自然、人々の視線は花京院に集まった。
「ち、ちょっと待ってください。彼とは今日会ったばかりで、愛し合っているとはとても言えません」
「呪いの種類にもよりますが、単なる好意でもいい場合もあります。確か、薬は口から飲まされたわけではなく、頭上にかけられたのですよね?では比較的軽いものである可能性は十分に考えられる。唯一無二の愛情でなければならない可能性もまたありますが」
「……僕が彼にキスすればいいんですよね?」
「やってくださるか」
承太郎の両親は身を乗り出した。
「まあ、友情でも解呪できるか試してみるくらいなら」
「申し訳ない。ドラゴンにキスなど、無理なお願いをすることになるが」
「いえそのへんはまったく問題ないです」
「?」
「いえ、なんでも。早速準備をしましょう。彼の居場所は分かりますか?」
「私が占いましょう」
こうして花京院は、ドラゴン承太郎を人間に戻すべく旅をすることになった。
承太郎が飛んでいった先は、ジョースター国の北の外れにある寒山らしかった。
そこは夏でも雪が降り積もるのだという。
花京院は丈夫な馬にまたがり、山へ向けて出発した。
道中はそこまで大変ではなかった。
国の誇りたる王子が悪い魔法使いによって魔物に変えられ、それを戻すために隣国の王子が旅をしているというのだから、人々は進んで協力してくれた。
ところが山の麓の村まで来ると、何やら状況が違うようだった。
あの山に最近住み始めたドラゴンは呪いをかけられたこの国の王子で、心配せずとも私がもとに戻します、と花京院が言うと、人々は気まずそうに顔を見合わせた。
「どうかしたのですか?」
「……大変申し上げにくいのですが……」
言いよどみながらも、村の住人はこう話した。
曰く、この辺りは寒さのために農作物が少ししか収穫できない。
寒さに強いヤギを飼ってはいるが、日々食べていくのだけでやっとで、山に出るオオカミたちにいつも怯えて暮らしていた。
ところが先日、この山にドラゴンがやってきた。
はじめは更なる災難かと思い震えたが、ドラゴンは村を襲うでもなく娘を要求するでもなく、山で鉱石を食べて暮らしているらしい。
そのドラゴンの影響だろうか、なぜか村の付近までオオカミが降りてくることがなくなり、とても助かっている。
山に入った狩人たちが突然の吹雪で立ち往生したときは、炎を吐いて村までの道を作ってくれたという話さえある。
つまりこの村では、ドラゴンの存在はとてもありがたがられているのだ。
そうは言われても、彼はこの国の王子なのである。
花京院はもとに戻すかは置いておいて、一度話だけでもしたいと言った。
村人たちも身分の高い花京院の頼みを断るわけにもいかず、名うての狩人を二人案内につけた。
とはいえ時期は春の終わり、山は確かに雪を残していたが、歩くのがそう大変というほどでもなかった。
山頂はなかなかに険しそうではあったが、花京院はそこまで行く必要はなかった。
彼らの気配を感じてか、ごうごうと風を打つ音を響かせ、大きな黒いドラゴンが目前に降り立ってきたからだ。
「……ここまでご苦労だった。君たちは下山してくれたまえ」
「し、しかし花京院様」
「私の命令が聞けないのか?」
「いえ!申し訳ございません!それでは……ご無事で」
「ああ」
案内人たちが去ってしまってから、花京院は「さて」と承太郎に向き直った。
「どうやら君は、理性まではなくしていないようだ」
「ああ、そうだぜ。花京院」
「おや話せるのかい」
承太郎は大きな口を歪めて笑った。
「見た目が変わっただけだぜ。だがこうなってから、人間の言葉を喋ったのははじめてだ」
「どうしてか訳を聞いても?」
「大きな害はないが、獰猛で恐ろしいドラゴン。そう思わせておきたいからだ」
「なぜ?」
承太郎が口を開けると、ぎらぎらと鋭い牙が見えた。
「そっちの方が楽だからだぜ。お前はおそらく俺をもとに戻しに来たんだろうが、その必要はねえ。俺はこの姿が気に入った。うるせえやつらに取り囲まれることもないし、自分の翼一つでどこへでも行ける。食べ物だって自分で探せるんだ。毒見役もいらねえ。鉄や岩もなかなか乙なもんだぜ。俺はこの体で何一つ不自由してねえ」
「そうは言っても……」
花京院は承太郎を見上げた。
立派な角、筋肉の盛り上がった四肢は黒光りする鱗に包まれている。
なんだって噛み砕けそうな顎に、力強く太い尾。
彼がその翼で悠々と飛ぶのを知っている。
「なんだよ?」
「いやあ、見れば見るほどハンサムだと思って」
「ああ、そういやお前はこっちの方が好みだったな」
「……なあ、承太郎」
「なんだ?」
「君がそう言うのなら、人間に戻すのは諦めてもいい。だが最後に、一度キスさせてくれないか」
いいぜ、と言おうとした承太郎の脳裏に、ふと幼い頃の記憶が蘇った。
母が語ってくれたおとぎ話、お姫様のキスで王子様は。
近付いてくる花京院に、はっと身を引く。
「どうしたんだ?」
「お前は俺をもとに戻す方法を知ってるはずだ」
「……それが?」
「俺とのキスだろう?」
花京院は一瞬顔をこわばらせ、そういう反応を取ってしまった自分に舌打ちした。
「正解のようだな」
「そういうのは関係なく、僕がそうしたいからだって言っても信じてもらえないかな」
「いや、そのこと自体は信じるぜ。だがそれで人間に戻っちまうんなら、俺は全力で逃げる」
「うるさい。キスさせろ」
「いやだね」
そう言ったきり承太郎は翼を広げて飛び上がり、いずこへかと去っていってしまった。
花京院は歯ぎしりして山を降り、村人にオオカミ避けの塀を作れるだけの援助を遣わすことを約束して、馬を駆ってドラゴンを追うことにした。
その日から、承太郎と花京院の壮大な鬼ごっこが始まった。
あるときは南の島、あるときは東の荒野、承太郎は気ままに飛び回り、花京院も必ずそのあとを追った。
だいたいどこの地方でもパターンは同じだ。
突然のドラゴンの来訪に怯える人々が、このドラゴンは福を運んで来たのではと思い始めた頃、馬を走らせて騎士がやってくる。
彼はドラゴンのもとへ赴き、話をしてからキスを迫り、するとドラゴンは逃げてしまう。
そこで騎士は知らせをくれた町の人々に礼を言い、ついでに人助けをして、ドラゴンを追って町を出る。
いつしか黒いドラゴンとそれを追ってくる若い騎士は、吉報の知らせとなっていた。
彼らの行方は人々の口先に上り、その中にはドラゴンが騎士の好物である果物がなる木を用意していただとか、騎士が国の后からの差し入れを持っていっただとか、微笑ましいものも含まれていた。
そんなある日、花京院はいつものようにドラゴンの噂を聞きつけ、ある港町にやってきていた。
花京院の姿を見ると、町の人々は歓迎して宿を提供してくれた。
ありがたくそれを頂戴して、花京院は町長の悩み事を聞いた。
よその国の人間である自分があまり内政に口出しをしても、と思っていた時期もあったが、その国王に「いやあ典明くんが現地の声を届けてくれるからありがたい」と言われ、后に「承太郎と結婚したらうちの国に来てもらうんですもの、他人行儀はよくないわ!」と言われては、もういいかなと思って好きにやることにしている。
というか結婚の話、まだ消えてなかったのか。
「あ、いたいた承太郎。君、いい加減にキスさせろよ」
「お前こそいい加減諦めろよ」
承太郎は海辺の岩場で水に濡れた岩をかじっていた。
「それ、うまいのか?」
「甘じょっぱい感じでなかなかだぜ。ついでに魚も取れたからお前も食べろよ。そこに焼いてある」
「ああ、うまそうな匂い、これだったのか。いただきます」
そこでしばし無言のお食事タイム。
「なあ承太郎。君、本当に、もう人間に戻る気はないのか?」
「こっちの姿の方が気楽だと言ってるだろ」
「でも君、もう君を狙ってたお嬢さんたちやその親御さんたちは諦めたみたいだぞ。もしもとに戻ったとしても、こんな長い間魔物でいた男のもとへはやりたくないと考えるのが普通だろう」
「そうだなあ」
承太郎は大きなエメラルドの瞳で花京院を見た。
「お前と一緒なら、王宮に戻ってもいいかと最近思い始めてきてる」
「え」
花京院はごくりと魚の肉を飲み込んだ。
顔がやけに熱い。
「だが、ま、お前は人間には興味がねえんだろ。キスしたらこの関係も終わりだな」
「そう……だね」
花京院は足元に目を落とした。
いったいいつから僕は、彼を人間に戻すため、キスをするために追いかけるのをやめて、彼に会いたいがために追いかけていたのだろう?
花京院は顔を上げて承太郎を見つめた。
彼は首を伸ばして空を見回している。
僕が追いついてしまったから、また次、どこかに行ってしまうのだろうか。
また彼を探していかなければ、話すこともできないのだろうか。
承太郎の目は海の波を映してキラキラ光っていた。
あの色を知っている。
あの色は変わることがない。
はじめて会った日、光差す中庭で見た。
あれを、とてもきれいだと思った。
「もし、君が……」
「ん、なにか言ったか?」
「いや」
花京院は承太郎から目をそらした。
キスをしてしまえば彼は人間に戻り、王宮に戻り、もとの生活に戻り……その生活の中に、自分がいてもいいのだろうか?
彼が先程言ったのは、そういう意味でいいのだろうか?
花京院はまた顔を上げて、目の前のドラゴンの姿を目に焼き付けた。
本当に美しい。
黒曜石の鱗が深く輝いている、彼は空の、そして地上の王者だった。
それから一度ぎゅっと目を閉じて、次に開いたときには花京院の瞳には大いなる意思と覚悟が燃えていた。
「承太郎」
「なんだ」
「僕、君とキスがしたい」
「だからそれは、」
できねえ、と言いかけて承太郎は口をつぐんだ。
花京院のこの目は、一体どうしたことだろう。
「違うんだ。君を人間に戻すためでもなければ、僕がドラゴンを好きだからでもない。君だからだ、承太郎。僕は、君と、キスがしてみたい」
承太郎はしばらく花京院を見下ろしていた。
花京院はその間ずっと、けっして目をそらさなかった。
「分かった」
言うと、承太郎は顔を地面の近くにまで降ろした。
花京院は彼へと近寄った。
こんなそばで承太郎を見るのははじめてだ。
そうだ、僕は彼に、触れるのだってはじめてだ。
そうっと手を置いた承太郎の大きな顎は、やけどしそうなほど熱かった。
そこへ、静かに静かに、口づけを落としたのだ。
「なんだ、君、人間でもなかなかハンサムじゃあないか」
「うるせえ、とっとと城に帰るぞ」