三つの宝石

 
暗闇の中に二つの緑と一つの赤を見た。
それらはきらきら光って、まるで死ぬなと励ますかのようだった。

 

幼い花京院が肺炎にかかって死にかけ、奇跡的とも言えるほどの回復をした後、彼は奇妙なことを言い出すようになった。
病床に、不思議な生き物の姿を見たのだという。
そしてそれは今も変わらず彼の隣にいるのだ、と。
けれど大人たちは首を傾げるばかりだった。
どう目を凝らしてみても、花京院の隣はただの空白だったから。
子供の妄想だと片付けるには、花京院は本気だったので、そのうち彼は「おかしなことを言う子」だと思われるようになった。
しかし花京院にははっきりと、それの姿が見えていたのだ。
それは犬というには太い足を持ち、熊というには賢く、人というには獣のような見た目をしていた。
病から起き上がった花京院が、それと目線を合わせ、
「こんにちは。ぼくは花京院典明。きみは?」
と聞くと、それは緑の目をきらめかせて
「おれは承太郎だ」
と名乗った。
その日から、承太郎は花京院にしか見えない彼の唯一の友達になった。

 
 

「ただいま! 承太郎」
誰もいない部屋に向かって声をかける。
誰もいない、というのは花京院以外の人間の意見だ。
彼には部屋の半分をも占める大きな獣の姿が見えている。
どうしてこんなに力強くて、こんなに大きくて、そしてこんなに美しい獣が皆には見えないんだろう?
「おう、帰ったか、花京院」
承太郎も帽子を直しながら返答した。
出会った頃から承太郎は毛と同じ色の帽子を被っていた。
これをとった姿を花京院は見たことがない。
彼と遊ぶときも眠るときでさえも、それはずっと頭の上だ。
それは承太郎なりのこだわりなのかと、花京院はその理由を問いただしたことはなかった。
「今日は海の生物の本を借りてきたんだ」
そう言って承太郎の横に座り込む。
すると承太郎は、花京院が自分に背中を預けるような姿勢に移動して、二人一緒に本を覗き込むのだ。
二人はいつでも隣にいた。
いつでも一緒だった。
承太郎が何者かなんて、花京院にはどうだってよかった。

 

それを見たのは、花京院が少々体調を崩して早退した日のことだった。
朝から妙に咳き込むな、と思っていたのだが、授業に集中していられないほど頭が痛くなってきたので早引けをしたのだ。
それは花京院にとって珍しいことではなかった。
彼は肺炎を患ったときから病弱で、周りもそれを理解していた。
つまり周囲の大人も、そして承太郎も。
そのはずだった。
それまで花京院は、承太郎がずっと部屋で彼の帰りを待ちわびているものだと思っていた。
いつだって彼が帰るときには部屋にいるから、自然とそう思っていたのだ。
だから小道を曲がった先で漆黒の大きな獣を見たとき、そしてそれが承太郎だと気が付いたとき、花京院は何より驚愕を覚えた。
承太郎、きみ、一人で部屋を出歩いたりしていたのかい!
しかしその次に覚えたのは嫌悪感だった。
承太郎に対して、ではない。
承太郎がその鋭い牙の生えた口でくわえていたものに対して、だ。
それは何と言うか、宗教画に出てくる悪魔のような、いびつな生き物だった。
細長く黒い体にまがまがしい鉤爪と尻尾、コウモリを思わせる翼。
あまりにそのまますぎて他にいい言葉が見つからないくらいだ。
悪魔はただ気味が悪いというだけの存在ではなかった。
悪魔の周りの空気が澱んでいるようで、生理的に吐き気を催すような存在であった。
同時に、それをくわえている承太郎に対しても、つい「気持ちが悪い」という思いが浮かんでしまった。
そんな花京院の目の色を目ざとく見抜いたのか、承太郎は何も言わず、悪魔をくわえたままいずこへかと消え去って行ってしまった。

 

家に帰り着くと、部屋には承太郎の巨体が待ち構えていた。
もう悪魔の姿はどこにもない。
花京院はそのふかふかの毛皮に顔をうずめて呟いた。
「承太郎、ぼく、今日初めて、きみが何なのか知りたくなったよ」
承太郎はしばらくの間それには答えず、青い顔をしている花京院の背中をさすってやっていた。
それから優しくベッドに横たえ、小さな声でこう言った。
「おれはブラックドッグ、死神犬だ。おまえが幼い頃、死にそうだったから現れた。今日見た悪獣はおれの普段の餌だ。だが本来なら、おまえの命を食うべき存在なんだ。おまえが幼少から病弱なのも、おれのせいだ。……おれは本当は、お前のそばにいないほうがいいんだ」
そんなことはない、ずっとそばにいてくれ。
花京院はついにその言葉を言いそびれた。
承太郎がまるで風のように巨体を翻して窓から出て行ってしまったから。
そうして彼らは別れた。

 
 

承太郎がいなくなってからも、花京院はみるみる元気になった、ということはなかった。
相変わらず食は細く、少し走ればすぐに息切れし、誰かが咳き込めば必ずその風邪を貰ってきた。
けれど今度は承太郎のせいではない。
正確に言うならば承太郎が原因ではあるけれど、と花京院は思った。
彼がいなくなったからだ。
承太郎がいないから、ぼくはいつまでたっても本調子が出ないのだ。
これでは何の意味もない。
ああどうか戻ってきておくれ、ぼくの愛しい獣!

 

めっきりやせ細った花京院がそれを見たのは、今度は塾で遅くなったある夜のことだった。
薄暗い夜道を一人とぼとぼ歩いていると、突然周囲に深い霧が立ち込め、その向こうにぼんやりと巨大な獣の姿が見えた。
それは憔悴した花京院より更にガリガリにやせ細り、大きく裂けた口から絶えずよだれを垂らしていた。
その目は血の色に光りひたと花京院を見据えている。
「これだ」と思った。
こいつが、ぼくを弱らせている本当の元凶だ。
承太郎は、ぼくの黒い獣は、ブラックドッグなんかじゃあなかった。
死神犬はこいつだ、間違いない。
そいつは闇の毛並みを逆立て花京院に飛び掛ってきた。
一寸の狂いもなく喉元を狙っている。
あわや、というところで花京院は救われた。
ブラックドッグに噛み付いていったのは、もっとずっと美しい黒の毛並みを持つ獣だった。
二匹の獣はどちらも譲らず激しく戦い、最後の最後にきゃんと小さく鳴いてブラックドッグが負けを認めた。
承太郎はその緑の瞳で「失せろ」と言い、死神犬が完全に姿を消すまで見据えたままだった。
危険がすっかりなくなると、承太郎は優しく花京院の頬を舐めた。
「もう大丈夫だ。あいつがおまえのそばからいなくなれば、おまえもずっと元気になれる」
「ううん、それだけじゃあ駄目だ」
「どういうことだ?」
花京院は戦いの最中に落ちてしまった承太郎の帽子を手に取った。
それに隠されていた獣の額には、大きな大きなルビーが輝いている。
「きみがそばにいてくれなきゃあ、ぼくは元気にはなれないよ」
そうして微笑むと、「じゃあおれは」と承太郎は震える声を出した。
「おれは、おまえと一緒にいていいのか」
勿論だよ。ありがとう、ぼくの大事なカーバンクル。