神田川に石を投げ

 
その二人がどこから来たのか、誰も知るものはいなかった。
二人はお互いのことを、「承太郎」「花京院」と呼び合っていたから、田舎町の人々も彼らのことをそう呼んだ。
それが本名なのか、それとも偽名なのかも、もちろん分からない。
都会の匂いのする、日本人離れした大柄の美丈夫と、洒落た見た目の優男風の青年は、はじめ住人たちにうさんくさい目で見られた。
承太郎というほうの青年は、その体格を活かして、力仕事を探しはじめた。
けれど、ツテもアテもない彼には、職探しは難航した。
身分証もなければ保証人もおらず、そも住所も前の仕事も口に出さない彼に、仕事を紹介してくれる人はいなかった。
だが彼は諦めなかった。
承太郎は土木関係の事務所や金属音のする工場などに飛び込みをかけて回り、とうとう人手が足りていないという現場を見つけ出した。
そこに半ば押しかける形で雇われ、承太郎は職を手にした。
一方の花京院は、川辺の露天商の並びのリーダーに掛け合い、その端に、小さな金魚すくいの店を出した。
そうやって彼らは、この町で生活を始めた。
二人を疎んじていた町の人たちも、彼らが気のいい好青年であることが知れ渡るにつれ、態度を和らげていった。

 

朝早く、古びた四畳半のボロアパートから承太郎が仕事に出て行く。
それから夕方、ちょうど日の沈むころ、花京院が小さな出店の水槽に、赤と黒の金魚を流し入れる。
彼がそうやって店の準備をしている時刻に、橋を越えて承太郎が帰ってくる。
左隣でリンゴの飴を並べている男が、「おい、ダンナだぜ」と花京院に声をかける。
彼は顔をしかめて――ただの照れ隠しなのは誰の目から見ても明らかなのだが――、それでも周りに急かされるままに、承太郎に向かって手を振る。
すると、いつも仏頂面の承太郎が、少しだけ表情を緩めて、軽く手を上げ、それに応える。
それがこの街の、新しい日常になりつつあった。
夜も更け、出店の列に賑わいが出てくると、花京院の様子を見に、承太郎がやってくる。
金魚すくいの店には、今日も常連の小さな子供が来ている。
栗色の毛をふわふわさせながら、何度チャレンジしてもあまり上手くならない手つきで、二、三匹の金魚をすくい上げる。
花京院が少年の手から器を受け取り、小さなビニール袋に入れてやって手渡す。
すると少年は、破顔して袋を見せようと、黒い影になっている男のところまで駆け寄っていく。
男は少年の、少し緩んだ帯を直してやって、二人で手をつないで帰っていくのだ。
それを見送って、微笑みながら手を振る花京院を見つめる、それが承太郎の幸せだった。

 

こうして彼らがやってきて、二月ほどが経過した。
季節は、冷たい木枯らしの吹く冬になろうとしていた。
花京院はきちんと毎晩店を出していたが、そこに承太郎がやってくる頻度が減っているのに、周りだってもちろん気付いていた。
ふわふわ栗毛の少年さえも、相変わらず覚束ない手つきで金魚をすくったあと、キョロキョロあたりを見回して、あの長身の青年を探す仕草を見せるようになった。
承太郎は仕事を欠勤することはなかったけれど、その効率が大幅に下がっているのに、気付かない同僚や親方ではなかった。
毎日承太郎は、ふらつきながら狭い家に帰ってきて、倒れるように眠った。
花京院は黙々と、金魚を売っては滋養によさそうなものを買って帰った。
けれど彼が稼げる金額などたいしたものではなく、彼が承太郎に与えられるモノも、たかが知れていた。
そして、初雪の積もった朝、承太郎はとうとう、静かに息を引き取った。

 

その日の夕、いつもの通りに花京院は、川辺に金魚すくいの店を出した。
雪をさくさく踏みながらやってきた栗毛の少年は、やっぱり少しの金魚を手に入れると、新しくできた右隣の店を覗き込んだ。
それからがま口を開けて中を見たが、どうやら所持金が足らなかったようだ。
その様子を見て、連れの男が硬貨を差し出し、少年に手渡した。
尻尾をふりふり走ってきた少年からそれを受け取り、承太郎は少年に、「どれにするんだ?」と聞いた。
少年は笑顔で狐の面を指し、「これ!」と言った。
後ろで黒い羽毛の男が、「それは意味があるのか?」と苦笑している。
「いいの!」と言いながら去っていく二人の後姿を見送りながら、承太郎は隣に座る花京院の顔を見て笑った。
これが二人の幸せだ。