神々のこどもたち – ロキの息子――世界蛇の場合――

 
空条承子は船の上にいた。
彼女はフィールドワーク中の海洋生物学者であるから、それはおかしなことではない。
そして今、空条承子は海の底にいる。
それもまあ、乗っていた船が海上で転覆したのだから、自然なことといえば自然なことだ。
不可解なのは、こうして海の底に沈んだというのに地上と同様に息をしており、その結果まだ生きながらえているという事実だ。
何も、承子が突然えら呼吸を始めたとかいうことではない。
海底に、何故か空気――それも『重い』空気ではない、肺呼吸ができるものだ――が溜まっており、気が付いたら承子はそこに一人寝ていたのだ。
「……ここは?」
常に身につけているコンパスを取り出し方角だけは確認したものの、ここがどういう場所だか判明するまでむやみに歩くのは危険だと思われた。
陸地のある方に向かって泳いでいけばいい、というわけではないのだ。
何せここは海の底……それにしてもいったいここは何だろう?
承子は慎重に周りを見回した。
古い船首飾り、引きちぎられたような錨、いつのものだか分からない衣装タンス、ぼろぼろになったカーテンらしきもの……様々ながらくたが、承子と同じように海底の空気溜まりの中に落ちていた。
ここに空気がある理由は未だによく分からないが、海流に乗って海を漂うものが流れ着く場所なのかもしれない。
だったら私はラッキーだったな、承子はそう思った。
嵐でもなんでもない穏やかな天候の中、突然船がひっくり返ってしまったものだから、一時はどうなることかと思ったが。
だが他の乗組員たちはどうだろう。
転覆してすぐどこかで頭を打って気を失ってしまったから、詳しくは分からない。
どこかに流れ着いていてくれるといいが。
そんなことを考えながら、慎重に歩を進めていると、じきに空気の『端』に到達した。
何か膜でも張っているのだろうか、すぐ目の前に海水がある状態だというのに、空気をとどめておくための人工物は見当たらない。
首をかしげる承子の肌が、突然ピリピリと総毛だった。
空気の層の向こう側、先の見えない水の塊の中に、何か、いる――!

 

初めは『それ』がどんな形のものだか、すぐに認識できなかった。
クジラかと思うほどの大きさではあったのだが、なまじクジラに詳しいためにすぐ違うと分かったのだ。
『それ』が巨大な鼻先を空気の層へ入れてきて(一瞬割れるのではと危惧したが、この空気の塊は見た目より丈夫であるようだ)、のっそりと、承子の背丈ほどもある眼でぎょろりと見つめてきたので、ようやく『それ』が何だか分かった。
こいつは、蛇だ。だがウミヘビじゃあない。
自分の知っているどの蛇とも違う。
海にこんな蛇がいるなんて――いや、これこそが本物の『海蛇』で、あとのウミヘビはみんな、こいつのちゃちな模造品なのではないか。
蛇の広い広い口がゆっくりと開き、シューシューというような声が聞こえてきた。
「お目覚めかい、ぼくの宝物」
「お前は………いったい?」
「ぼく? ぼくは世界蛇(ミドガルズオルム)。ぼくは海の底で中つ国を取り巻くもの。君に食べ物を持ってきたよ」
そう言うと、蛇は更に口を開いた。
するとその口の中から、根っこごと引き抜かれたと思しき木が何本も転がり出てきた。
木には赤や黄色の果物が生っている。
承子が果物に手を伸ばしたのを見て、満足したように笑うと――大きすぎて口の動きもよく見えないが、確かに笑ったように思えた――蛇はまたのっそりと体を起こし、海の闇の中へと消えていった。

 
 

それから、承子と蛇との奇妙な生活が始まった。
コンパスと時計、それが今の承子の持っている全てだった。
蛇は一日とおかず承子の元へやってきた。
果物の木や野菜(畑を丸ごとだ)、生魚を持ってくることもあった。
しかし、それだけだ。
蛇は承子に何かするということはなく、毎日飽きもせずじっと眺めるだけだった。
おかげで承子の方も、蛇をじっくり観察することができた。
蛇はとても巨大だったが、その体は古傷だらけだった。
それも明らかに、武器による傷だ。
特に目立つのが、両目を大きく引っかいたような切り傷と、頭の上の方を何かで打ちつけたような跡だ。
頭の片側で、鱗がめくれてそのまま固まってしまっている。
水の中を泳ぐときには、その鱗がたゆたって前髪か何かのようだった。
海底の岩を刻んで数えた日にちが七日目になるころ、承子は思い切って蛇に声をかけてみた。
「なあ、聞きたいことがあるんだが」
「なんだい、ぼくの宝物。気が向いたら答えてあげるよ」
「ここは海の底だろう? なぜこんな風に空気が溜まっているんだ? もう一週間もここで暮らしているのに息苦しくならねえし、それにどこにも明かりはないのに自分やお前の姿がよく見えるのも不思議だ」
「おばかさんだね! ぼくの宝物置き場なんだもの、ぼくの魔法でそうしているに決まっているじゃあないか」
魔法なんて言葉を聞いたのは子供の頃以来だったが、承子はすんなり納得できた。
このような蛇に魔法の力がない方がおかしいというものだ。
「なるほど、よく分かった。もう一つ聞きたいんだが、お前はなぜ私のことを『宝物』と呼ぶんだ?」
「きみがぼくの宝物だからだよ。きみはとてもきれいだもの」
承子は頬が火照るのを止められなかった。
面と向かってそんなことを言われたのは、生まれて初めてだったのだ。
いつも彼女の耳に届くのは、怖いだとか生意気とか、そういう言葉ばかりだった。
何も、彼女の周りにいるのが敵対者ばかりというわけではない。
それでも他人に褒められたことといえば、後輩の女生徒たちに一種の男性アイドルのような扱いを受けた程度だったのだ。
勿論、この蛇が承子を『女性扱い』しているわけではないのだろうが。
「今までぼくの一番のお気に入りは、ほら、そこにある鏡だったんだ。鏡は割れちゃってるけど、周りにはめ込んである緑の光る石がすごくきれいだろう? でも今はきみが一番だよ。きみの目の方が、その石よりずっときれいだ。いつまで見てても飽きないよ。海の上で見つけて、思わず持って来てしまったくらいだ」
「……海の、上? 海を漂っていた、ということか?」
「違うよ、海の上、船の甲板にきみがいたから、ぼくの宝物にしようと思って、船をひっくり返してここまで持ってきたんだ」
「じゃあ、あの、突然の転覆は…お前のせいだったのか……」
道理で前兆も何もなかったはずだ。
こんな大きさの蛇にかかっては、たとえ大型の豪華客船だってひとたまりもないだろう。
ましてや小型の調査船などでは太刀打ちできるはずがない。
「あの船には、私以外のスタッフも乗っていたんだ。彼らはどうなった?」
「さあ。ぼくはきみにしか興味がなかったから、他は知らない」
「そう、か………」
それきり承子は黙ってしまった。
泣くことも声を荒げることもなかった。
そんなのは無駄なことだ。
相手はただ体が大きいだけのウミヘビじゃあない、こんな神話の蛇には、人の命などそこらに転がるガラクタと同じかそれ以下の価値しかないのだ。
彼女が急に押し黙ってしまったので、蛇は不思議そうに顔を覗き込んだ。
このきれいな人間を見ているだけでも楽しいが、話をするのも楽しいと分かったばかりだ。
もっと話をしたい。声を聞きたい。
「どうして黙るの? 他に聞きたいことは?」
「……悪いが、少しの間一人にしてくれねえか」
蛇は不服そうにしていたが、承子にそれ以上話す気がないのが分かると、シューシュー音を立てながらどこかへ行ってしまった。
 

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気にすることなく蛇は次の日もその次の日もやってきたが、承子は話をする気にはなれなかったし、食欲も減衰してめっきりやせ細ってしまった。
「ねえ、ぼくの宝物、食べないの? この赤い果物、おいしいよ。甘くて少しすっぱくて、ぼくの好物なんだ」
「ではその果物と私と、どちらが好きだ?」
「え、何、どういうこと?」
「なあ、ミドガルズオルム、私は人間なんだ。そりゃあお前にとってみれば人間なんて取るに足らない存在なんだろうが……人間っていうのは、土の上でしか生きられないものなんだ」
「けれどきみは海がとても似合うよ」
「ああ、私も海は好きだ。海は全ての生き物が生まれた場所で、そしていつか還るところだと思っている。だがそれは今じゃあないんだ。生きていくのには、土を踏みしめて立っていなくてはならない。お前とは違うんだ」
ゆっくり、噛み締めるように承子は告げた。
蛇は体をくねらせると、右目が承子の顔の前に来るようにした。
蛇があまりに大きすぎて、真正面からだと顔が見えないのだ。
「……でもぼくも、昔は陸の上で暮らしていたんだよ」
「そうなのか?」
「うん。でも神々の邪魔になるからって、海に捨てられたんだ。ぼくがまだずっと小さかった頃のことさ」
「それで、今そんなにでかくなって、なぜまた陸に上がらないんだ?」
承子がそう尋ねると、蛇はぽかんとした表情になった。
「また陸に……そういえば、そんなこと考えたこともなかったな………上がって、いいんだろうか?」
「さあ……私には神々とやらの都合は分からんが……駄目だったらまた戻されるだけじゃあねえのか」
「そう…かなあ」
「あのな、それで、私が言いたいのは、私を陸上に帰してくれねえかってことなんだ」
「きみを?」
蛇は驚いて承子を見やった。
蛇には一度自分のものになった宝物を手放すという発想そのものがなかったのだ。
けれど目の前の宝物がなんだか疲れた顔をして、海の上で見かけたときよりきれいに見えないのに気付いた。
それでもこの宝物から目が放せない。
今まで壊れてしまったものや興味のなくなったものは、さっさと捨ててきたというのに。
しかしこの宝物が輝かなくなった理由が、海の底にいるからなのだとすれば。
蛇は小さく「分かった」と呟いて、小型船など一飲みにできそうな口を少しだけ開けた。
濃い緑色の舌が覗いている。
「この中にお入りよ、地上まで連れて行ってあげる」
もしかしたら食べられてしまうかもしれないなどとは、承子は考えなかった。
常に正直であるのがこの蛇の美徳だと、そういうことは考えたが。
彼女を広い口の中に包み込み、蛇は一気に海の上へと躍り出た。
承子は体にかかるGに耐えなければならなかったが、水圧の激しい変化は一切感じずに済んだ。
蛇の口が開いて久しぶりに日の光を浴びた承子は、人気のない海岸の砂浜に降り立った。
「どこに人間の町があるのかは知らないけど、船が入っていくのを見たことがあるから、人間が住んではいると思うよ」
「ありがとう」
太陽の下で見る蛇は、大きな鱗がきらきら光ってとても美しい、と承子は思った。
こんなに美しいものを暗い海底に沈めておくなんて。
「お前、その……ミドガルズオルムとは世界蛇という意味の通称だろう。お前の個人の名は何と言う?」
「うーん、何かあったはずなんだけれど、もう何千年も独りでいるから忘れてしまったよ」
「そうか……。私の名前は空条承子というんだ。よかったら、承子と呼んではくれないか」
「ジョーコ?」
寧ろあどけなささえ見える様子で、蛇はその名を口にした。
「ジョーコ、ジョーコ。うん、ジョーコ、じゃあね」
そう言うだけ言って名残を惜しむこともせず、蛇は海へと戻っていってしまった。
承子は蛇の名を知らず、ゆえに呼びかけることもできないで、ただ一人海岸に残された。

 
 

歩いてすぐ着いた小さな町で財団に連絡を入れると、ものの数時間もしないうちにスタッフが飛んできた。
「ご無事でしたか! 救助されたスタッフたちの情報からも居所がつかめなくて、もう駄目かと思っていたのです」
「心配かけたな。ところで私の有給休暇だが、どのくらい残っている?」
「は? それは……承子様、いえ空条博士は財団にお勤めになられてから一度もお休みを取られていないので、たっぷり残っているかと思われますが……」
「早速今日から使いたい」
「勿論です! ゆっくりお休みになってください。アメリカのご自宅に戻られますか? ジョースター邸の方がよろしいですか?」
「いや、この島で宿を取ってくれ。なるべく西の海岸に近いところがいい。期間は無期限でだ」
「はあ……分かりました」

 

それから承子は、毎日海を見て暮らした。
船を待っているわけでもなくため息をついて日々を過ごす彼女を、島の人々は遭難したときに頭がおかしくなったのだと噂したが、承子は気にしなかった。
頭がおかしいというのも事実だろう、日がな一日、大蛇のことを考えているのだから。
そうして彼女の食はますます細り、体重は日に日に減少し、とうとうある日、承子は寝込んでしまった。
夢の中で彼女はあの蛇を見た。暗い海の中を、何かを探すように頭をめぐらせながら泳いでいる。
「私はここだ」
と承子は呟いた。
蛇がはっとしたように頭を上げた。
「ここだ! 私はここにいる!」
承子は叫んだ。蛇の巨大な瞳が、はっきりと彼女を捕らえた。

 

扉をノックする音で目が覚めた。出てみると心配そうな顔をした女将が立っている。
「体調は大丈夫かい? あんたに会いたいって人が来てるんだが、断ろうか?」
「人? いや大丈夫だ。着替えたらすぐに行く」
小さな宿屋の女将は気さくで親切だが、まさか体調不良の原因が恋わずらいなどとは言えるはずもない。
簡単に着替えを済ませ宿の談話室に赴くと、見知らぬ男が待っていた。
いや、顔にかかる前髪も、目を縦に切り裂く傷跡も、見覚えのあるものだ。
男は承子の姿を認めると広い口で笑みを作り、シューシューいう声でこう言った。
「やあジョーコ、やっと見つけたよ」