神々のこどもたち – ロキの娘――死者の国の女神の場合――

 
空条承太郎は母親と二人で暮らしていた。
彼の父親も健在ではあったが、遠い町に働きに出ていたので、顔を見ることすら年に一度あるかないかといった具合だった。
承太郎の母親は息子を愛していることを隠さないタイプだったので、それを鬱陶しく思うこともあったが、承太郎も母親を大事に思っていた。
母親は名のある家柄の出で、夏至や冬至のときには巫女として神殿に赴いていた。

 

さてある祭日、承太郎は果樹園へと仕事に行き、母はいつも通り神殿へ出かけていった。
承太郎が凶報を聞いたのは、夕方家に帰ってからだった。
運の悪いことに、その日神殿では赤い目の神と金の星の神が鉢合わせしたのだという。
そしていつものように赤い目の神が金の星の神へ言いがかりをつけ、いつものようにちょっとしたいさかいが起こり――そしてそこに偶然居合わせた彼の母が死んでしまったというのだ。

 

承太郎は憤慨し、しかし冷静さは失わずに赤い目の神ではなく金の星の神の元へ訪れた。
「ぼくも悪いとは思ってるんだ」
と神は言った。
「だけどぼくには死者を蘇らせることはできないからね」
「ではどうすれば、母は戻ってくるのです?」
「それができるのは冥府の女神ひとりきりだよ」
「それでは彼女に会いに行きましょう。冥府とやらへ向かう方法を教えてください」
「馬を駆り三日三晩荒野を走り続けると、とうとうその果てに小さな掘っ立て小屋と枯れた井戸がある。小屋に人の気配があっても、絶対に覗き込んではいけないよ。小屋には近付かずに、井戸を降りていくんだ。そうすると大きな門があるから、そこをくぐると冥府だ。分かっていると思うけど、あちらの食べ物を一口でも口にすると戻ってこられなくなるからね。これを持っていくといい」
そう言って金の星の神は承太郎に魔法のロープを手渡した。
「ありがとうございます」

 
 

それから承太郎は丈夫な馬を買い、三日三晩荒野を走り続けた。
三日目の夜に馬が倒れて死んだので、丁寧に感謝の意を捧げると、あとは荒野を舞う鳥たちに任せて、その先をひたすら歩いた。
夜が開ける前、薄く立ちこめる霧の向こうに、とうとう彼は小屋を見付けた。
小屋の横にはしなびたキャベツの並んだ畑があり、その中に小さな井戸があった。
小屋からは二つの声が聞こえてきていた。
どちらも、高い男の声あるいは低い女の声に聞こえた。
片方は絶えず笑っており、もう片方は何かよく分からない言語で、韻を踏んだ詩を唱え続けていた。
承太郎は賢い男だったので、開け放たれた窓には近付きさえせず、まっすぐに井戸へと向かい、金の星の神からもらったロープでその中へ降りていった。
井戸の中は全くの闇で、何も見えず何も聞こえず底なしのように思われたが、魔法のロープはいくら伸ばしても尽きることはなく、そしてとうとう彼は地の底へと辿り着いた。
そこにそびえる大門は大きく開けており、真っ赤な肌をした角のある門番は居眠りをしていた。
承太郎は門をくぐり、死者の国へ足を踏み入れた。

 

勇敢なる戦死者は戦乙女たちによってヴァルハラへ連れられる。
この冥府にいるのは、そうではない者たち――病死者や臆病者たちだ。
だからだろうか、あたり一面に陰鬱な空気が満ちており、承太郎は眉をひそめた。
こんなところに母がいるなんて!
一刻も早く連れ戻さなければ。
承太郎が目指したのは、この地に一つだけそびえ立つ大きな城だった。
あそこに冥府の女神がいるのは間違いないだろう。
城の番人はさすがに居眠りなどはしていなかった。
「生者か? 何用だ」
「俺の母親が、神々の……どうでもいいちょっとした争いに巻き込まれて死んだ。生き返らせて欲しいから、女神に直談判しにきた。取り次いで欲しい」
「なるほどなァ。生きたままでよく来れたな。ちょっと待ってろ」
承太郎が事情を話すと、警戒を解いたのか番人は砕けた口調になった。
門番と同じように、炎のような赤い肌と角のある男だ。
銀色の髪を柱のように逆立てている――これは門番とは違うから、彼なりのファッションなのだろう。
番人は少し離れたところにいた別の番人と一言二言交わすと、城の中へ入っていき、承太郎が座って待とうかと思案するより前に顔を見せた。
「女神様が会うってさ」
「随分早かったな」
「基本的に暇なんだ、冥府ってのは。反乱を起こすような気力のある奴はそもそも来ないし、圧政を敷いてるわけでもねえからな。こっちだ、きなよ」
承太郎は番人の後について入城した。
城は外壁も内装も真っ黒で、その重々しい雰囲気は荘厳と言うよりは息がつまるものだった。
恐ろしい怪物が彫りこまれた扉の前で番人は立ち止まった。
「ここが謁見の間だ。失礼のないようにな」
そうして通された広間で、承太郎は冥府の女神とまみえた――そのときのことを何と表現すればよいのだろう?
使い古された言い方をするなら、承太郎は体中に電撃が走ったような感覚を覚えた。
そんなこと、起こるわけがないと思っていたのだが。
女神は憂鬱そうな瞳で承太郎を見た。
彼女の前髪は、片方だけが長く長く、体を覆い隠すほどだった。
彼女の半身、短い髪の方は美しくミルクを流したような肌をしていた。
そしてもう片方、長い前髪で覆われている方は、肉は腐ってポロポロ崩れ落ち、蛆が張り付いている箇所もあれば灰色の骨が露出している部分もあった。
つまり彼女は、半分生きており半分死んでいるのだ。
彼女のぱさついた長い前髪は死んでいる部分を隠すように伸ばされていたが、それでも隠し切れぬ腐臭がその体の半分を取り巻いていた。
承太郎はため息をついた――こんな女性は他に見たことがない。
 

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「それで? 何用か?」
 彼女の声は凛と澄み渡り、同時に暗く澱んでいた。
「俺の名は空条承太郎という。俺の母が先日、神々のいざこざに巻き込まれて死んでしまった。彼女を生き返らせて欲しい」
「確かにわたしには、死者を蘇らせる力がある。だがそうといって、簡単にその力を使うわけにはいかない」
「それは分かる。だが俺の母親は、本来ならまだ死ぬべきじゃあなかったはずだ。代償には何がいる?何をすればいい?」
「…………ひとりの死者が生者の国に戻るために、ひとりの生者ができることといったら一つしかない」
女神の瞳は暗く深く、闇そのもののようだった。
それではもう片方は?
今は前髪に隠されている、その死んだ瞳は、どんなに美しく輝いているのだろうか?
「それでは、俺が母の身代わりとなろう。俺をこの冥府に迎え入れ、母をよみがえらせて欲しい」
「いいだろう」
言うと女神は玉座から歩み寄り、承太郎に冷たい冷たい口付けをした。そして彼は死んだ。

 
 

空条ホリィは空条承太郎の母親だった。
彼女は古い名家の出で、巫女として神殿に行くことがたびたびあった。
ある日、彼女はそこで死んだ。
そして気が付いたときには生き返っていた。
自分が生き返るのに、大事な息子が身代わりになったと聞いて、彼女は喪に服し嘆きの日々を送った。
一年ほどのち、息子と半生半死のその妻、そして孫娘が遊びに来るまでは。