神々のこどもたち – ミーノースの息子

 
「今年がその年だ。そしてもう、少年も少女もおらぬ」
これが父に言われた言葉だ。
母には会わせてもらえなかった。
僕に与えられた猶予は一晩。
どうにか助かる道は無いかと、宮殿の召使や町の人々に話を聞いたが、聞こえてくるのは迷宮の複雑さに、その奥の怪物の恐ろしさばかり。
誰も出てきたことの無い迷宮に住む牛頭の怪物は、九年に一度、生贄に捧げられた少年や少女を食べて生きている。
ところがその、食料となるべき少年少女が、もうどこを探しても見付からない。
それも当然だろう、今まで愛情をこめて育ててきて、やっとこれから働き手になるという子供を、化け物の食料に連れて行かれるなど冗談ではない。
などと思っても、国王の命令に逆らうわけにもいかない。
そのためもう十数年も、子供の生まれない春が続いていた。
公に生まれた子供はただ一人、国王その人の息子だけである。
そして国王は、つまり僕の父は、息子の命より、あるいは血を分けた跡継ぎより、神の怒りが自身に降り注ぐのを恐れた。
そういうわけで明日の朝、僕は迷宮へと一人で足を踏み入れなければならない。

 

今晩が最後の月だ。
眠る気が全然しなくって、僕は夜の街を一人歩いていた。
このまま逃げ出せば、明日の朝、迷宮に立つことは避けられるかもしれない。
だが生贄が勝手に逃げ出したのを、許す神なんてかつて居ただろうか?
遅かれ早かれ死ぬのなら、国の安泰のためになるほうがいい。
今まで捧げられた少年少女たちもそんな気持ちで、決して気乗りはせず、けれど別に誇りを持っていたわけでもなく、人生を諦めたのだろう。
「アア!それにしたって、一人の人間の罪を国民全員で引っかぶらなければいけないなんて!例えば一人の神の過失があったとして、天界全てが償ってくれると言うのか? 案外、化け物とやらも、迷宮に退屈しているんじゃあないか?」
猫の子一匹見えない真夜中の道すがら、高く荒げた僕の声に、応える声が一つ。
(ならば救い出してみるかい?彼と自分の両方を。)
驚いて振り向いた僕の目に映ったのは、月の光に薄く輝く糸の玉だった。
風も無いのに僕のほうへ、ころりと転がってくる。
解いてみればそれは、麻糸でもなく毛糸でもなく、『何かのひも』というよりは『ひも状の何か』といった、見たことも聞いたことも無い、奇妙な感触のものだった。
……ふむ、つまりこれで、僕と誰かさんが助かるわけだ。

 
 

付き添いの兵士たちも去り、迷宮の前に立つのは、簡素な装束に身を包んだ国王の一人息子だけ。
僕は懐から昨晩拾った糸玉を取り出し、迷宮の入り口で緑青に赤い実を散らしている、さくらんぼの木の枝に、その先を結びつけた。
自分への景気付けに、小さな実を一つだけ貰って口に含みながら、僕は足を踏み出した。

 

暗く広く湿っている、陰鬱な迷宮の中を進んでいくうち、気分まで暗くなってくる。
けれどそういうときにも、手にした、するすると心地よい音を立てて解けていく糸玉を見ると、不思議と心が安らいだ。
糸玉はいくら糸を伸ばしても一向に小さくなることはなく、糸が尽きることも無いのだろうとすぐに分かった。
途中で、折り重なって死んでいる、古い子供の死体をいくつか見つけた。
初めこそ生理的な嫌悪感を感じて目をそむけてしまったが、何人目かの死体で、気がついたことがある。
彼らの体は、肉が腐敗し骨が見え、ばさばさになった衣服にしみを作っていた。
つまり、肉が食われていないのだ。骨は骨のまま残され、衣服にすら手が付けられていないのだ。
「これはいったい?迷宮に住まうという、牛の頭を持つ怪物とやらは、死んで久しいとか、そういうことだろうか」
「おいおい、俺を勝手に殺すんじゃあねえぜ」
低く響く声に驚いて振り向けば、そこには僕の二倍はあろうかという、逞しい肉体の大男が。
彼は話に聞き及んでいたとおり、首から上には真黒な牛の頭をつけていた。
けれど僕が想像していたように、その顔は野蛮な獣の形相をしてはいなかった。
つややかな皮と均整の取れた大きな角、そして暗闇でも緑に光る―――糸玉と同じ色だ―――穏やかな目。僕は彼を見て、ただ、美しいと思った。
それで声が出せずに居ると、彼は小さく溜め息を吐いた。

 
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「今年は一人か?九年前は五人くらいでぞろぞろ来てたと思ったんだが」
「こ、今年は。人間が不作だったんです。僕一人で許してはいただけませんか」
「許す?」
「僕をどのようになさっても構いませんから。好きなだけ僕で遊んで、好きなように食べてくださいませ。その代わり国に災害は……」
「おい、ちょっと待て。俺に向かって命乞いしねえ奴は初めてだが、……いやそういうことじゃあなくてだな。まずは事実を言うぞ。俺は何も食わなくても生きていける」
「え、そうなんですか」
「実際、人食って生きているんだとして、一年に一人くらいの割合で生き延びられると思うか?この俺が?」
「……ちょ…っと無理そうですね」
「だろ? そもそも俺は人肉なんて食わねえ。どちらかといえば野菜が好きだ。悪いが、今までここに来た奴らは、迷宮で迷って勝手に野垂れ死んだんだ。助けてやろうにも、俺もずっとここで迷ってるクチでな」
「あー、なるほど……僕ら、出さなくてもいい犠牲者を出してたんですね……」
「それにな、俺はただの半獣のバケモンだ。国に災害だのなんだの、起こす力はねえぜ」
「そうなんですか」
「そうだ」
「………………」
「…………」
「…あの。実は僕、ここに糸玉を持っているんだけど」
糸を辿って外界へと顔を出した二人は、ラビュリントスの扉を閉ざし、手に手を取って、すっかり愛想を尽かした国から逃げ出した。いったいどこへ行ったのか、それからどうなったのかは、もはやさっぱり分からない。