N – のこりのひとつはこみちのおくの

 
その日、畑に水をやるのは羊の当番だった。
首をぷるぷるさせて家に戻ると、朝食を作っているはずの男の姿がなかった。
珍しく寝坊をしているのか、と寝室に向かい、そこで羊は真っ青な顔をしてがたがた震えながら大量の汗を流している男を発見した。
自分もまた、一瞬にして病気を伝染されてしまったかのように震えながら、羊は男がクローゼットの奥に仕舞い込んだ鞄を引っ張り出した。
歯ががちがち鳴って、その鞄を開けるのに、いつもの2倍はかかってしまった。
目当ての書類を発見すると、印字された電話番号をプッシュする。
相手先が名乗り、こちらも名乗るよう請求されたが、羊はただ「Joooe..s..taaar」としか言えなかった。
ジョースターの名を知らないオペレーターは、いやスタッフはあの研究所には居ない。
所長へのアポイントメントですか?お名前、所属、電話番号をお願いします。
「Kujooo」
空条の名を知らないスタッフだって、誰一人居ないだろう。
機械的だった受け答えが突如変貌し、あなたは誰か、そこはどこか、空条博士はどうしているのか、勢いよく尋ねられる。
何も応えずに居ると通話相手が変わり、更に息せき切って誰何されるが、もう羊は受話器の前には居ない。
男の額に浮かぶ汗を舐め取り、そう望まれたとおりに、力の入らない手に自分の蹄を握らせる。
電話はあのままでいいだろう、すぐに逆探知され、セスナなりジェットなりが飛んでくるだろう。
町の医者を引っ張って来れない羊には――せいぜい入り口で嘲笑と門前払いを受け取るだけだろう――これが出来る精一杯だ。
呂律の回らない舌で呼ばれる自分の名前が、名前なんかには聞こえなくて、こんな時なのに、寂しさに羊は涙した。

 

男は几帳面でも神経質でもなかったが、徹底した性格をしていた。
羊のことを知らない村人が、あるいは研究員が押しかけて来ても、ただ男が羊と暮らしていたというだけで、羊の『人格』を思わせるような痕跡は何もなかった。
それで研究員たちは、そう羊が意図したとおりに、羊のことなど気にも留めないで、男を救うために奔走してくれた。
羊には専門用語はさっぱり分からなかったが、男の病気が、目立った症状が表れにくく自覚のしにくいものであったのは分かった。
そういえば羊と暮らし始めてから、身元が明らかにされるのを恐れ、男は一度も医者にはかかっていなかった。
いや、研究員たちの会話の中にも、羊にも分かる単語がいくつかはあったのだ。
「臓器」やら「移植」やらは、羊がまだ羊ではなく、キメラだったときにも何度も耳にしたものだったので。

 

意識の曖昧な男が、はっきり羊を呼ぶことがなくなって、久しく見た大量の白衣の人間に邪魔にされ、羊が庭で一人佇んでいると、一人の人間が近付いてきた。
「お前さん、Nじゃな。一緒に暮らしておったのか。……のう、お前さん、うちに電話してきた人間を知らぬか?孫ではなかったはずなんじゃ」
この老人は本気で、羊にものを尋ねているわけではないのだろう。
大事な相手が苦しんでいるのに何も出来ないのは、羊だけではないのだ。
ともすれば震えそうな声を誤魔化すかのように溜め息をついて、老人は続ける。
「なんだってこんな田舎に逃げるように隠れたのだか……こんなところでは臓器提供者が見付かるはずもなかろう」
羊に話しかけていたのではなく自分に言い聞かせている、その証拠に、羊が立ち去ったのには老人は気付かない。

 
 
 

何故浴槽に水が張られていたのかって?
決まっている、昨晩の残り湯だろう、だって羊がひとりで蛇口をひねることなど出来るものか。
そこに頭を突っ込んで、溺死した羊が見付かったのは、それから数時間もしないうち。
すぐに処置を施せば羊が助かったのか、それとももう手遅れだったのか、それは今では誰にも分からない。
それが羊ではなくキメラだということに、元担当のスタッフが気が付いて、その汚れの無い腎臓が男の使い古された腎臓と交換されたのだと教えられたのは、男が普通に息が出来るようになってからだった。
それを知った男はたいそう動揺し、嘆き悲しみ、リハビリをさぼり、鬱々と日々を過ごし、ほんの数週間で拒絶反応を起こして死んだ。
羊が死んでから、男が安らかな顔をしたのは、その息が止まってからだったそうな。

 
 

(ぼうやが死んでりゃ、何にも無しさ)

 

One for my master,
One for my dame,
[N]one for the little boy who lives in the lane.

 
 

one:1人, 1つ
none:だれも[一人も]…ない(no one);なにも[一つも]…ない(not one)

 

(副題とインスピレーション元はマザーグース”Baa, baa, black sheep”より)