N – ひとふくろめはだんなさまに

 
起床時刻は定められていない。
起きたい時に起きればいい。
ただし食事の時刻は毎日決まっている。
計算されつくした、味も素っ気も無い配合食を、観察されながら食べる。
それが済めば定時の健康診断がある。
兄弟たち――それが例え試験管であっても、同じ「腹」から生まれたのなら兄弟だろう――は慣れたものだが、どうしても僕はこれが好きになれない。
緩くだが拘束され、大勢の人間に無遠慮に触られて、異常が無いかどうか機械的にチェックされる。
彼らも手馴れたもので、まるでベルトコンベアに乗せられてでもいるかのような流れ作業だ。
僕は自分の暮らしを嘆くことの出来る立場には居ない。
話に聞く、僕らに似たような(あくまで「似たような」、だが)ものたちは、それこそ何十、何百とが狭い区画に一緒くたに押し込まれ、酷いところでは寝る・食べる以外に何も出来ない施設さえあるらしい。
それに比べれば、「運動の時間」と強制されてはいても、広い場所で体を動かすことが出来るだけでも幸運なのだろう。
たとえそこが硬い壁に囲まれた無菌室であったとしても。
望郷の念は無い、僕らは緑の草原を、青い大空を見たことが無い。
僕以外の兄弟たちは、それらの存在さえ知らないのだろう。
僕だって、彼に教えてもらうまでは、そんなもの想像さえしたことが無かったのだから。

 

いつからだったか、そう、確か始まりは彼が離婚のことで、愚痴ともいえないほどの小さな呟きをもらしたのだった。
その音は他の兄弟たちの、耳にまでは届いたのだろうが、彼らはみな、顔を向けることさえしなかった。
だから僕もそのように振舞うべきだったのだ。
僕ひとりだけ、何か普通ではない、と思われることはすべきではなかったのだ。
それでも相手が彼だったから、僕らのことを単なる研究対象として、数値だけのデータとしては見ていない、と常々思っていた彼だったから。
つい耳を傾けて、目さえ合わせてしまったのだ。
それから彼は、ただ黙って隣に座り込み、とりとめもない話を聞くだけの――本当に「話を聞いている」とは夢にも思ってはいないのだろうが――僕の元へ、毎日かかさず、世間話をするために現れた。
話の内容は、今日のシャツの着心地から、ナントカ学のナントカ理論(残念ながら僕には教養がないのであまりよく分からない)まで、様々だ。
はじめは純粋な知識欲だけからだったのが、そのうち彼の考え方や感じ方を知るのが楽しくなってきて、今ではもう、彼の声を聴きたいがために横に座るようなものだ。
彼の姿を見るや否や、他の兄弟を押しのけて一目散に近付いてくる僕を、彼がどう思っているのかは分からない。
僕のことに、これだけ思考力があることに、絶対に気付いて欲しくないような、胸が痛むほど気付いて欲しいような。
僕の目に映る彼は、ずっと建物に篭っているからすっかり白くなった肌と美しい黒髪を持っていて、研究付けの毎日でもちっとも衰えを見せない筋骨隆々な肉体を白衣の中に隠している。
彼のきらきら光る緑の目の表面に、僕の姿も見える。
不恰好に鼻が長くて、目が離れすぎていて、不自然に汚れの無い蹄とバランスの悪い角が見える。
顔の脇の羊毛が一部分だけ長く放っておかれているのは、彼らが研究者であって羊飼いではないからだ。
彼の目に、僕はどう映っているんだろう。
彼らの研究対象である、ヒトとほとんど変わらない細胞を持つ、生きた臓器提供動物なのだろうか、それとも見た目どおり、ただのヒツジなのだろうか。
それとも、それとも、と、その先の期待を誤魔化すように、そんなこと考え出さないように、わざと醜くbaaとひとつだけ鳴いてみせた。

 
 
 

ひつじあきはヒトとヒツジのキメラ。
見た目や社会的地位はヒツジのそれで、ただし細胞がほとんど人間と変わらない。
将来的に臓器提供に利用するために生み出だされた、まだ研究段階のキメラ。
思考力はヒツジレベル、の兄弟の中でひょっこりヒトレベルの知能を持って生まれてきた。
けれど最終的には「出荷」される運命なのをよく分かっているので、その知能を外へ示したことは無い。
固有名はN(エヌ)。