Zへの憧憬

花京院はたいへん醜い白猫だったので、人々はこぞって大金を支払い見物に来た。
同じ屋根の下の、クマだろうがライオンだろうが何か芸をしなければ拍手の一つももらえなかったが、花京院の場合は舞台の上で歩いてみせるだけでおひねりが飛んだ。
人々は花京院を指差して笑ったり怖がったりした。彼はそれだけ醜い猫だった。
何せ彼には、翼が生えていたのだ。
前足の付け根の少し上にある翼は、花京院が歩くのに合わせてぱたぱた羽ばたいた。ポスターに絵姿を描いておけばいくらでも客が入る、花京院はサーカスの花形だった。
けれど花京院がいくら稼ぎ頭だからって、やっぱり彼は醜い猫だったから、舞台が終われば狭い檻に入れられて放っておかれた。
一応、『事故』が起きないようにと他の猛獣たちの檻からは離されていたが、その計らいは花京院を孤独にさせるのと同義だった。
けれど花京院はそれでいいと思っていた。幼い頃から人々の好奇の目に晒され続けていた身には、一匹きりの状況は心が休まるものだ。自分が本当は寂しいと感じていたことを、自覚したのはこの町に来てからだった。
この町で花京院の居場所は、小高い丘の上、サーカスのテントの横手に停められたトラックの荷台の上だった。花京院にはトレーニングの必要な芸なんてなかったから、日に二度サーカス団員が餌やりに来る以外は、ずっと一匹で誰の気にもかけられていなかった。そういうわけで、花京院の元へこっそり黒い野良猫が通いつめていることは、二匹だけの秘密であった。

承太郎は野良だったが、艶やかな毛並みと長い尾、輝く緑の目、それに何より大きく美しい翼を持っていた。
彼は音もなくすべるようにサーカスのテントまで飛んでくると、軽やかにトラックへと飛び移り、綺麗な小石や甘い木の実、いい匂いのする花なんかを花京院に見せてくれた。そして外の世界の色んなことを教えてくれた。
もうずっとサーカスの猫として過ごしてきた花京院には、狭い檻も暗いテントも窮屈だと感じるものではなかった。けれど承太郎が話す外の世界というものは、きらきら光る緑の目に映ったものだからだろうか、この上なく魅力的に輝いて見えた。陽を受けて光る川、間違えて口にしてしまった苦い草、捕まえた小鳥のこと、冬の日に目を焼く白、白、白!
だけれど承太郎は、そんな彼の話に目を輝かせる花京院の方がずっと綺麗だと思っていた。花京院はいい匂いがするし、耳に心地よい声で鳴くし、鼻と鼻をくっつけて挨拶するととても幸せな気分になれる。
こいつと一緒に野山を飛び回ったら、どんな気持ちがするだろう?そう考えて承太郎はある日、花京院にずっと考えていたことを提案してみた。
「なあ花京院、こんなところ逃げ出して、おれと一緒に暮らそうぜ」
花京院なら喜んで頷いてくれると思っていたのに、白猫は怯えたような目をして檻の奥で縮こまってしまった。
「無理だよ。ぼくはサーカス以外の生活を知らないんだ。ネズミ一匹捕まえたことがないんだよ。野生でなんて生きていけるはずがない」
「そんなのおれが教えてやる。なんなら食べ物はおれが見付けてきてやってもいい」
「それでも駄目だ。鍵がかかっているんだもの」
確かに彼が閉じ込められた檻には、頑丈な鍵がかけられていた。だがそんな金属の鍵よりずっと強固な鍵が、花京院の心にかかっているのが、承太郎には見えるようだった。

次の日、承太郎はテントにこっそり忍び込み、花京院のショーを見に行った。野良猫の承太郎にはサーカスなんて興味をそそられるものではなかったので、今まで見たことがなかったのだ。そこで承太郎は驚いた。
世にも珍しい翼猫、とよく通る声で紹介されて舞台に登場した花京院は、なんだかごちゃごちゃした滑稽な飾りを付けられていて、けれど首元には硬い皮の首輪が締められていた。その首輪をつかまれて高々と持ち上げられたり、趣味の悪い色合いに塗られた平均台の上を、ピエロにせっつかれて羽をぱたぱたさせながら歩いたりして無遠慮なフラッシュの光を浴びる花京院は、ちっとも楽しそうになんか見えなかった。
承太郎は首の後ろの毛が逆立つのを感じた。あんなに綺麗な花京院が、こんな風に見世物にされているなんて!
そこではたと気が付いた、どうして花京院は飛んで逃げないのだろう?……もしかしたら彼は、空が飛べないのかもしれない。小さい頃からずっとサーカスに居たと言っていたから、飛び方を知らないのかも。だったらおれが教えてやる。空を飛ぶっていうのは、こうやるんだぜ!
勢いを付けて承太郎は舞い上がり、縦横無尽に飛び回った。承太郎を見付けたテントの中は大騒ぎになった。
何だあれは?空を飛んでいるぞ!
承太郎を指差して驚いていたのは、観客たちよりも寧ろサーカス団員たちの方だった。
空飛ぶ猫だ・・・・・捕まえろ・・・・花京院なんか・・・・・・目じゃあない・・・・・・
ところが承太郎が、一通りテントの中を飛び回って注目を集めた後、猛獣の火の輪くぐりに使われたたいまつを蹴倒したものだから、それどころではなくなってしまった。
火の勢いは弱かったものの、テントという閉鎖空間の中で炎が舞台の上の小道具を舐めるのを見た観客たちはパニックに陥り、我先にと出口へと駆け込んだ。団員たちはそんな観客を誘導したり、消火に向かったりと走り回っている。その隙を突いて承太郎は花京院の目の前に降り立った。
「今なら鍵も何もねえ。首輪は後で噛み切ってやる。おれと逃げるぞ、花京院!」
「だ……駄目だよ。できない」
「何でだ?そんなにおれのことが嫌いか?」
「まさか!ぼくは君のことがすごく好きだ。尊敬している。だからだよ、一緒に行けないのは……ぼくはずっと、君に嘘をついていたんだ。ぼくは翼猫なんかじゃあないんだよ。ぼくの肩にあるのは、ただの毛皮の塊だ。『おいしゃ』とかいうのがそう言っていた。母猫のお腹の中で毛皮がうまく作れなくて、余分な塊がついてるだけなんだって。脚の付け根についているから、歩いたら動くけど、それだけだ。君みたいに空を飛ぶなんて芸当、できっこないんだよ!」
その告白に、承太郎はとても驚いた。花京院のことは生まれて初めて見付けた『同種』だと思っていたからだ。だがその次に自分の口から出てきた言葉には、もっとびっくりした。
「そんなことどうだっていい!」
その台詞に花京院も驚いたようで、アーモンド型の目をこぼれそうなほど大きく開いている。
「おれはお前のことが好きなんだ。羽があるとかないとか、そんなのはどうでもいい。おれと一緒に来るのか来ないのか、どっちだ?」

その場にそんな人間が居たかどうかは甚だ疑問ではあるが、もし騒々しいテントの中、静かに耳を済ませた人物が居たならば、そしてその人が猫の言語を少しでもかじっていたなら、泣きそうな声で白猫が「行く、行きたい!」と叫んだのが聞こえたかもしれない。
そうしてそれから、もしもあなたの運が良いならば、丘の上を『飛び回る』、黒猫と白猫を見ることができるかもしれない。