二つのコップ

「私は悪魔ではありません。これは取引になりませんよ」

 花京院はある日、なんだかよく分からないものを助けた。分かりにくくてすまないのだが、本人に聞いてもなんだかよく分からなかったのだから仕方ない。
 花京院はその日、とある公園の中を歩いていた。最近ようやくまともに体が動かせるようになってきたから、リハビリがてら散歩していたのだ。時刻は黄昏時。昼と夜が交差するときだった。
 日が暮れかけて、オレンジ色に染まった世界で、花京院は公園の大木の根元でうずくまる、なんだかよく分からないものを見つけた。
 それは中型犬くらいのサイズで、けれど見た目はどちらかというと猫に似ていた。体毛は赤色。前足は短く、うずくまっていた最初は分からなかったが、二足歩行をしていた。顔には獣らしい鼻がなく、花京院は一瞬スタンドかと警戒した。だがスタンドにしてははっきりしすぎている。草を踏む質感もある。
 花京院は迷ったが、声をかけてみることにした。
「どうかしたんですか?」
 それはぱっと顔を上げた。左右の目が色違いのオッドアイだ。左目は空のような青色、右目は墨を流したような黒。それは「ああ、どうか助けてください!」と口をきいた。少女の声だった。彼女が人間の言葉を喋れることは、なぜだか不自然には思えなかった。
「どうしたんですか? 助けるとはいったい?」
「ああ、実は私、この世界の住人ではないのです。見て分かるかもしれませんが。天界に用事があって出かけたのですが、雲の合間で足を滑らせて、落っこちてしまったのです。なんとか戻ろうとしたのですが、力が足りなくて……お腹が空いて、もう一歩も動けないのです」
「それは大変だ」
 花京院はポケットからチョコレートを取り出した。だが、彼女は慌てて身を引いた。
「いけません、いけません! この世界のものを口にしたら、私は元の世界に帰れなくなってしまう」
「ああ、なるほど、ヨモツヘグイか。あなたにとってはこっちが『あの世』なんですね。でもいったいどうしたら?」
「食べ物ではなく、あなたのエネルギー、生きる精気を少しいただけませんか? ほんのちょっぴりでいいんです。決して大量に奪ったりはいたしません。少し息が上がる程度です」
 花京院はもう一度悩んだ。そういうことを言って、他人からエネルギーを吸い取るスタンドであったなら?
「その前に、あなたが何者か聞いても?」
「ええ、もちろんです。……と言いたいところですが、人間に説明するのは難しいですね。私たちの種族のことは、人間界では認識されていませんから、人間界での名前がないんです」
「なんだかよく分からないということか……」
「すみません。私自身はハウスキーピングの仕事をしています。天界や地獄で、ですけど」
「そこ、行き来できるんだ?」
「ええ。とっくの昔に戦争は終わってますし。私は地獄にある社宅に住んでいるんですが」
「社宅とかあるんだ……ハウスキーピングの会社の?」
「いえ、夫の会社のです。夫は死神の仕事をしています」
「死神!?」
「あ、大丈夫です。人間のではなく、死神狩り専門の死神です」
「あまり安心できませんが……まあでも、あなたは僕らと対立する一党の差し金ではなさそうだ。いいでしょう、僕のエネルギーを分けてあげます。あくまでもほんの少しですよ」
「もちろんです! ありがとうございます」
 彼女がふっと微笑んだ。途端、花京院の体に軽い疲労が感じられた。だが、そう激しいものではない。
「ああ、ずいぶん楽になりました」
「それはよかった。これで帰れますか?」
「そうですね。まだちょっとかかりますが」
 彼女は身長の二倍ほどもある細長い尻尾を揺らして、後ろ足で立ち上がった。
「帰るためには、天界か地獄に繋がる扉を見つけないと。簡単に世界を行き来できるアイテムみたいなものもあるのですが、私は持っていないので。ですがその前に」
 彼女は印象的なオッドアイで、花京院を見つめた。
「あなたに何かお礼をしないといけませんね」
「いいですよ、別に」
「そういうわけにはいきません。もらいっぱなしでは、私に枷がついてしまう。私のためだと思って受け取ってください」
「そういうことなら……でもお礼って?」
「私がいただいたエネルギーに釣り合うものなら、何でも。お金でしたら一生遊んで暮らせるだけ、権力なら王様にだってしてあげられます」
「お金も権力もいらないなあ」
「でしたら、何か困っていることはありませんか? 不治の病だって治せますよ」
「僕自身はかなり回復してきているから……。そうだ、少し気になっていることがあるんです」
「へえ、何でしょう?」
「僕の恋人のことなのだけれど。最近様子がおかしいんです」
「というと?」
「笑ったり泣いたり、怒ったりしないんですよ。いつも無表情なんだ。といっても、僕と一緒にいたいと言うし、機嫌が悪い感じでもない。僕は十年ほど眠っていたから、その間に性格が変わってしまったのかとも思ったんですが、彼の家族や知人に聞いたらそんなことはないという。どうも、僕が目を覚ました直後かららしいんだ」
「それは奇妙ですね。彼の写真か何かありませんか?」
「ありますよ」
 花京院は懐から手帳を取り出した。挟んである写真を、彼女に見せる。
「あら、この方、魂が欠けていますね」
「魂が?」
「ええ。どうも感情やその辺りに関係する部分の魂が、ごっそりなくなっているみたいです」
「ええ……!? スタンド攻撃か何かだろうか……」
「いえ、綺麗にすっぱりなくなっていますから、多分ですが、悪魔か何かと取引したのではないでしょうか」
「悪魔と!?」
 花京院は驚いて声を上げた。
「一体全体、どうして……」
「あなたが目覚めた直後、でしたっけ? その辺りで、彼が何か大きな願いを叶えたということはありませんでしたか? 不可能を可能にしたということは?」
「うーん、僕が覚えている限りでは……いや、待てよ……?」
 花京院はそれに気が付いて、顔を青くした。
「……僕だ。僕が目覚めた原因は、未だにはっきりしていない。どうして起き上がることができたのか不思議だと、今でも主治医が言う。僕の目を覚ますこと、それが承太郎が叶えた願いだったんだ」
「なるほど、そうなんですね」
 なんだかよく分からない種族の彼女が頷いた。
「残念ですが、彼に感情を戻すことはできませんよ」
「え、駄目なのか?」
「そんな強い願いはさすがに難しいです。それこそ悪魔に頼むしかありません。でもきっと、またあなたが意識を失うとか、そういった対価を要求されると思います」
「元の木阿弥か……」
 花京院はため息をついた。まさか承太郎が、悪魔と取引をしていたなんて。
「どうにかして、彼に感情を戻してあげる方法はないだろうか?」
「そうですね……」
 彼女は花京院の顔を見上げた。
「あなたの魂の一部を分けてあげる、とか」
「そんなことができるんですか?」
「ええ。あなたの感情の起伏が、今の半分くらいになる。その代わりに彼の感情もそのくらいには戻る。その程度ならできますよ。私は悪魔ではありませんから、これは取引にはなりません。あくまでお礼ですからね」
「ああ、それができるのなら、どうかお願いだ! 承太郎に少しでも感情を取り戻させてやってくれ!」
「いいでしょう」
 彼女は微笑むと、いったいどこからだろう、大きな斧を取り出した。花京院が身構える間もなく、それが胸に向かって振り下ろされた。だがその斧が花京院の体を裂くことはなかった。それは花京院の胸を素通りして抜けていった。
「さあ、これであなたの魂の一部が剥がれました。恋人の元に戻って、彼をハグして、それからキスしてあげなさい。それであなたの魂が移ります」
「……分かりました」
「それでは、私はこれで。お元気で」
 彼女はそう言うと、木々の間に姿を消した。花京院は彼女にほんの少しの感謝の念を抱いて、家に帰った。何も、花京院が薄情者なのではない。彼の感情のMAXが、その程度になってしまったのだ。
 花京院が帰宅してから2時間ほどして、彼の恋人、承太郎も帰ってきた。
「おかえり、承太郎」
「ああ、ただいま、花京院」
 花京院は承太郎の姿を見やった。毎日見ても飽きない、美しい容姿だ。だからといって、そこまで強烈にハグしたいだとかキスしたいだとかは思わない。それでもせっかくなので、花京院は承太郎を抱きしめ、その唇にくちづけた。
「花京院?」
「どうだい、承太郎?」
 承太郎は片眉を上げた。けれど、花京院を軽く抱きしめ返してくれた。
「嬉しいぜ、花京院」
 承太郎はそれから、花京院の両の頬にキスをした。花京院はやっぱり、ほんの少しの喜びを感じた。それと同じくらいの喜びを、承太郎も感じてくれていることは分かっていたので、不安など何もなかった。