隣人の名は

「悪くねーじゃねえか。俺がご所望の悪魔だ。で? 取引の内容は?」
「え……? え?」
 花京院は目を白黒させてその男を見た。黒い髪に黒い服。とても上品に見えるが、同時に触ったら切れてしまいそうな鋭さも持っている。
 外見は、およそ人間とは思えないほど整っている。彼の見た目だけで、人ならざるものだと理解できるほどに美しい。これで神々しければ天使にも見えたかもしれないが、いかんせんまとうオーラが禍々しすぎる。
「おい、おめーが俺を呼び出したんだろ? 取引してやるって言ってるんだ。要求を言え」
「えっ……え………じゃあ、えっと、帰ってくれませんか?」
「は?」

 花京院はごく一般的な高校に通う、ごく一般的な高校生だ。悪魔なんてそんなもの、ゲームでしか目にしない。そんな彼が、なぜこんなことになっているかというと、話は3時間ほど前に遡る。
 花京院はそのとき、図書館にいた。そこで本を何冊か借りた。そして家に帰った。それから家で本を読んでいたら、紙で指を切った。その血が本の上に垂れた。そうしたら、悪魔が召喚された。そして今に至る。
 いやいやいやいやおかしくない? この過程でなんで悪魔出てくるの?
「そりゃあおめーが正しい魔法陣の描いてある上に血を落としたからだろ」
「正しい魔法陣!? 図書館の本だけど!?」
「収集したやつに見る目があったっつーことだな」
「えー……僕ただちょっと……その……ちゅーに的な好奇心で本借りただけなんだけど。あなたを呼び出す気はありませんでした。帰ってください」
「つれないことを言うなよ。俺はなかなかおめーを気に入ったんだぜ。何か欲しいものはねーのか? 金とか権力とか」
「ええー……特にないです……お小遣いで十分欲しいものは買えてるし、権力とかもらっても困るっていうか。えっと、あなた……」
「ジョジョだ。そう呼べ。お前は?」
「花京院です。ええと、ジョジョ。今言った通り、僕はあなたを召喚するつもりはありませんでした。悪魔と取引なんて、そんな恐ろしいこと絶対にしたくない。帰ってください」
「おいおい、ちょっと待てよ」
 ジョジョは眉を寄せて顔を近付けてきた。すごい美形なんだからやめて欲しい。花京院は反射的に身を引いた。
「この俺を呼び出しておいて、取引したくねえから帰れだと? てめー、自分がどれだけ失礼なこと言ってるか分かってんのか?」
「いえ、でも偶然だったっていうか事故だったっていうか」
「事故だろーがなんだろーが、責任は取ってもらいてえもんだな。取引たって、そんな大それたものじゃなくていい。要求が小さければ、こっちだって対価を軽めにしてやる。何かねえのか?」
「えー……うーん……。………思いつかない……」
「欲のねえやつだな」
 ジョジョは呆れたといった声を出した。
「俺が帰ることが望みだとおめーは言ったが、それを要求とするなら、それだけで相応の見返りをもらうことになるぜ」
「えっ、何それ、詐欺じゃないか」
「この俺レベルの悪魔を退けるってことになるからな」
「えー……えー……あ、じゃあこういうのはどうかな? すっごくおいしいチェリーが食べたい!」
「いいだろう。この世のどんなチェリーよりうまい、極上のそれを用意してやる」
「ちなみに対価は?」
「おめーのチェリーに対する愛着だ。そのチェリーを食べたら最後、おめーは二度とチェリーというものが食べたくなくなる」
「えー! 嫌だ!」
「安心しろよ。そのチェリーが最高すぎて、他のチェリーなんざすべて不味く感じるようになっちまう。だから食べる気がなくなっても」
「だめだめだめ! 確かにおいしいチェリーは好きだし食べてみたいけど、僕はチェリーという存在そのものを愛してるんだ。チェリーに興味がなくなるなんてお断り以外にないよ」
「じゃーてめーは何が望みなんだ」
 ジョジョが少々憮然とした顔で聞いてきた。
「チェリー以外に」
「チェリー以外……でもさ、何を求めても、さっきみたいな対価が必要なんだろう?」
「全部が全部、さっきのような対価じゃあねーがな」
「なんにせよ、僕がただ得できる取引なんてないってことだろ。悪魔だものね」
「おめー、本当に何も欲しいものはねえのか? 何を犠牲にしてでも手に入れたいと思うものは? なんだっていいんだぜ、この世のあらゆる富を手中に収められる。あるいは不可能を可能にできる。死んだ人間を蘇らせることだってできるんだぜ」
「う~~~ん。駄目だ、やっぱり思いつかない。僕は今のままで十分満足してるよ」
「おめーなあ」
 花京院は頭を抱えて考えていたが、悪魔ジョジョの方も頭を抱えたい気分だった。人間から呼び出されるときはいつも、悪魔に頼むしかないような事柄を要求として提示される。それにどんな対価をつけるか、それが腕の見せどころなわけだが、今回のように、何の要求も考えていない奴に召喚されるなんて初めてだ。というか、よくそれで召喚できたなこいつ。
 確かに正しい魔法陣の上に血を滴らせたのだろうが、だからって普通、それだけで呼び出せるものではない。悪魔に出てきて欲しいという強い意志が必要なのだ。何かを願ったはずなのだ、こいつは。
「今新しく考えるから出ないんじゃねーのか? おめー、俺を呼び出したときに何を考えてた?」
「え、何をって?」
 花京院は首をひねった。本を読みながら考えていたことだって? 悪魔なんてものが出てきてしまったものだから、本を読んでいたときのことなんて、さっぱり忘れ去ってしまっていた。そう、あのとき、もし悪魔がいるのなら、と考えたのは。
「なあ、ジョジョ」
「なんだ」
 花京院は腹に力を入れて、『それ』を呼び出した。『それ』は半透明の緑色の姿を、花京院の体に重ねて現した。ジョジョが軽く目を見開く。
「!! ジョジョ、これが見えるのか!? これは君と同じようなものなのか!?」
「いや、違う。落ち着け花京院。おめーがスタンド使いだとは驚いたが、そいつは悪魔でも何でもねえ」
「だってこいつ、クラスメイトを傷つけたんだ」
「そのクラスメイトがおめーに何かしたんじゃねえか? そうだろう、おめーの心か体か、そのどちらもか、とにかく傷つけようとしたはずだ。それでそいつは反撃に出た。違うか?」
「その通りだ……どうして分かるんだ? こいつは何なんだ? 教えて欲しい」
「フム」
 ジョジョは一瞬思案したあと、ニヤリと笑った。
「そいつについて教える。それがおめーの要求ってことでいいか?」
「え? あ……うん、これこそ僕の求めるものだ。どんな犠牲を払ったっていい」
「そうかそうか。じゃあ俺の要求を言うぜ。俺が欲しいのは、『そいつ』だ」
「えッ!? こ、これ、君に渡すことができるものなのか?」
「できねえことはないが、おめーが死ぬまではかなり面倒くさい。だからおめーの死後にそれをもらうことになる」
「死後……」
 花京院は『それ』の顔を見た。そこはプロテクターのようになっていて、表情を伺うことはできない。『これ』を死後、この悪魔に明け渡すことになる。
 花京院は自分が非常に動揺しているのに気が付いて、驚いた。『これ』がいなくなればいいと、そう願ったことだって何度もあるのに。それなのに、『これ』と離れることなんて想像できない。考えただけで、心が半分なくなってしまったような気持ちになる。
 そっと、『それ』が花京院の肩に手を置いた。花京院ははっとして『それ』の目――のように見える部分――を見つめた。『それ』は大丈夫とでも言うように、花京院に向かって頷いてみせた。
「………分かった。僕が死んだあと、『これ』は君のものだ。さあ、これでいいんだろう。教えてくれ、『これ』は何なんだ?」
「お前自身だよ、花京院」
 ジョジョはニヤニヤ笑いを深くした。
「お前はお前自身を悪魔に売ったんだ。だが、ま、そう愚かなことではないと思うぜ。そいつはおめーの精神が具現化したものだ。人間界じゃスタンドと呼ばれているみたいだな」
「呼ばれている、って」
「ああ、おめーの他にも自分のスタンドを持ってる人間はいる。そう多くはないがな。スタンドはスタンド使いにしか見えねえ。俺は悪魔だし、そいつはおめーの魂に近いものだからな、見える」
「これが……見える人が他にもいるのか……」
 花京院は衝動で頭が真っ白になった。『これ』は僕の精神の具現。僕自身。その説明は、すんなり理解できた。頭ではなく心で納得できた。
「そいつはおめーの思う通りに動くぜ。もしかしたら制御できなかったときもあったのかもしれんが、おめーの心を裏切ったことだけはないはずだ」
「確かに……そうかも」
 花京院は己のスタンドに向かって手を伸ばした。『それ』はその手を握り返した。この安心感。これは、こいつが自分だったからなのか。
「え、待ってくれ。こいつを君に渡したらどうなるんだ?」
「今ここでもらったなら、おめーは抜け殻になるな。植物人間状態ってやつだ。だが俺との取引は死後の話だから心配するな」
「その、死後はどうなるんだ」
「普通の人間は、死ぬと肉体がなくなって魂だけになる。それはおめーも同じだ。だが、魂ってやつは精神と密接に結びついているからな。おめーみたいなスタンド使いの場合は、魂がスタンドの形を取ることが多い。で、俺はそれをいただけるわけだ。死んだおめーの魂をまるごと、な」
「んん? 待ってくれ、つまり僕とこいつが切り離されて、こいつだけ君に取られるわけじゃないのか?」
「肉体がなくなって魂だけになった状態だと、それは至難の業だ。分かりやすく言えば、おめーとこいつが同化して、それを俺がもらうことになる」
「なーんだ!」
 花京院が明るい声を出したので、ジョジョは目を丸くした。こいつ、話聞いてたのか?
「僕とこいつが離れ離れになるわけじゃないんだな? だったらいいよ」
 そう言ってスタンドと顔を見合わせ笑い合う花京院を見て、やっぱりこいつ普通じゃねえな、とジョジョは思った。