迷信のあいだ

「悪魔と、取引してきてくれんか」
 長老に言われて、承太郎は重々しく頷いた。
「あいつらの力は強い。だがわしらだって、この地で昔から暮らしてきておるんじゃ。ただでさえ最近は人間どもに住むところを狭められておるんじゃ。これ以上はもう、無理じゃよ」
「分かってる。俺とおふくろで交渉に当たる。おふくろは悪魔の血も引いているからな。それで駄目だったら、戦うしかないだろうな」
「そうじゃなあ」
 長老、あるいは総大将も重々しくため息を付いた。
「我ら日本妖怪の力を集結させて、悪魔たちに立ち向かうしかあるまい」
 そういったわけで、承太郎は母親を舟に乗せ、その舟を押して悪魔たちの斥候が根城にしている小島に向かった。ちなみに承太郎は海入道であるから、舟に乗る必要はない。陸地の上でも行動できるが、舟を壊されたときに逃げ帰れるようにと、そういった理由からも承太郎が選ばれたのである。
 その島は、四方が切り立った崖になっていた。普通なら、空でも飛ばなければ近付けないだろう。承太郎は母親を手の上に乗せると、海の水を体に取り込み始めた。ずぞぞぞ、と音がして、承太郎の体が巨大に膨らんでゆく。とうとう崖より大きくなった彼は、母親を下ろし自分もその上に乗り上げて、それからまた体を縮めた。それでも十分大きいが。
 承太郎の接近に気付いていたのだろう、すぐ近くに悪魔の気配があった。
「交渉に来た。代表者を出してくれ」
「……僕だ」
 声がして、その悪魔が姿を見せた。赤い肌に黒い角と羽を持っている。あの羽でここまで来たのだろう。緑色をした髪は、前髪が一束だけ長かった。
「よく来たね。てっきり飛んで来るものと思っていたから驚いたよ」
「妖怪を舐めんなってことだ。さて、俺たちは交渉、というか取引に来たわけだが、ここでやるのか?」
「まさか。案内するよ、こっちだ」
 悪魔についていくと、小さな拠点のようになっているところに出た。他にも何人かの悪魔がいて、油断ない目で承太郎たちを見つめてくる。
「どうぞ、こちらにお掛けください。ええと」
「空条ホリィよ。こっちは息子の承太郎」
「ホリィさん」
 悪魔はホリィに向かって人好きのする笑みを浮かべた。
「妖怪にこんな美しい方がいるなんて知りませんでしたよ」
「あら、さすが悪魔さん、お口がうまいのね」
「本心ですよ」
「おい、おふくろのことはどうでもいい。さっさと取引の話をしようぜ」
「君はせっかちだな。いいよ」
 悪魔は夜の闇のような色の翼をたたんで座った。
「まずはこちらの要求から言おうか。僕らは土地が欲しい。場所にもよるが、だいたい県4つ分くらいは欲しいかな」
「そうなのね。それで、その対価は何かしら?」
「僕ら悪魔が日本に攻め入らないという約束、でどうでしょう?」
「なるほど、こっちには損しかねえわけだな。じゃ、こっちの要求だ。全員とっととこの国から消え失せろ。その代わり、てめーらを討ち滅ぼすのは容赦してやる」
「どうも相容れない要求のようだね」
「そのようねえ。悪魔さんたちは、どうして土地が欲しいのかしら?」
「住むところがなくなったからですよ。魔女狩りからこっち、だんだんヨーロッパには悪魔の居場所がなくなっていってて、今ではもう誰も悪魔の存在なんか信じてません。産業革命が一番大きかったかなあ。とにかくそういったわけで、僕らは住む場所を探してるんです」
「悪いが、日本も同じようなもんだぜ。俺ら妖怪もどんどん人間から忘れ去られていってる。すぐ住処もなくなるだろうさ」
「ええー、それは困るな」
「他の国に行きな」
「それはできない」
「なぜかしら?」
「僕らのボスが、日本がいいっておっしゃってるんです。ある程度は文明のあるところがいいらしくて。悪魔の質を下げないためとか」
「だが何を言われようが土地は渡せねえ。ただでさえ俺らの居場所が少なくなってるんだ」
「じゃ、交渉決裂かな」
「そうなるのかしら。ねえ、本当に他に取引する方法はなくて?」
「僕らは金や権力が欲しいわけじゃないんですよ、ホリィさん。土地以外に欲しいものはないんです」
「でもって、こっちは土地だけはなんとしても渡したくねえ。話し合いはこれで終わりだな」
「残念だわ」
「僕もです。気をつけて帰ってください、ホリィさん」
「俺たちを殺さねえのか?」
「そんな野蛮なことはしないよ。君たちはするのかもしれないけど。もちろん、次に戦場で会ったら本気でやらせてもらう」
「それはこっちもだ。じゃあな」
「失礼するわ」
 そうして承太郎とその母親ホリィは悪魔の元から去った。そしてその日から、妖怪と悪魔の戦争が始まったのである。
 

 戦争はおおよそ二百年ほど続いた。長く聞こえるかもしれないが、不老不死の妖怪と悪魔の間ではそうでもない。人間の感覚に換算すれば、二年くらいのものである。その間に人間界の方でも大きな戦争があって、日本では年号が何回か変わったようだが、忙しかったのでその辺りはよく分からない。
 承太郎はあの緑の髪の悪魔に、あの日言い合ったように戦場で何度も顔を合わせた。彼はなかなかに強力な戦士だった。承太郎もそれは同じで、大事な局面で必ず出陣する二人は、顔なじみといってもいいレベルになっていた。そんな、あるときのことである。
 承太郎は前線の拠点にいて、もう何十年も故郷には帰っていなかった。つまり、人間界の文化の変移については、ほとんど知らなかったといってもいい。そしてそれは、赤い肌の悪魔についても同じだったようだ。
 故郷からの遣いのものに話を聞いて驚いている承太郎の元に、悪魔軍からの使者がやってきた。そうしてまた、話し合いの場が設けられた。今度は大勢の妖怪たちや悪魔たちが見守る中で、であるが。
 承太郎がそこに向かうと、時を同じくしてあの前髪の長い悪魔もやってきた。二人は挨拶もそこそこに交渉に入った。とはいっても。
「単刀直入に言おう。僕らは負けを認めるつもりはない。だが、この地から撤退することに決めた」
「ほう、なぜだか聞いても?」
「祖国に、また住む場所ができたからだ。<信仰>の場にはもう居場所がほとんどないが、<物語>の中に非常に大きなスペースができた」
「奇遇だな。実はこっちもだ。どうも戦争帰りの片腕の男が、俺たちの入るスペースを大幅に確保してくれたとかでな」
「へえ、人間の考えることは分からないね。まあそういうわけで、双方に何の条件もなく終戦にしたいのだが」
「こちらの総大将もそれを望んでる。そういうことにしようぜ」
 そこで二人は約束を交わし(人間のように書類は作らないが、基本的に破ることのできない約束だ)、妖怪と悪魔のそこそこ長かった戦争は終わった。悪魔たちは、そのほとんどがヨーロッパに引き上げていった。そのあと合衆国に行くものもいるらしい。
 ほんの少し、日本に残った悪魔もいる。日本でも悪魔の<物語>が見られるようになったからだ。

「二百年間、オメーとはこうして茶でも飲みたいと思ってたぜ」
「本当か? 実は僕もなんだ。あ、ありがとうございます、ホリィさん」
「そういや、オメーの名前はなんていうんだ?」
「そういえば名乗ってなかったね。僕は………」