薬指の先約

「……悪魔か。僕と、取引してくれないか」
 目の前には大きな魔法陣。その中に堂々と立つのは、大きなねじれた角を持つ悪魔だ。彼は整った、整いすぎた顔で花京院をニヤニヤと見てくる。
「へえ、俺と取引したいって? そのために呼び出したのか?」
「そうだ」
 花京院はほとんど睨みつけるようにして、その悪魔を見た。目を逸らしてはいけない。それにしても、顔の整ったやつだ。イラッとするレベルだ。つやつやした黒い髪に、厚い唇、がっしりとした体格は惚れ惚れするほど。悪魔は印象的な緑の瞳をしていた。
「いいだろう。どんな取引だ? 言ってみな」
 花京院はごくりとつばを飲み込んだ。
「僕と、結婚してください!」
「………はぁ?」

 花京院は、とある神にしつこく言い寄られていた。神といっても創造主とか唯一神とかいうあれではない。この辺の土地の守護神的なあれである。金色の髪をした美しい神なのだが、傍若無人な性格をしており、既にもう何人も自分のものにしているというのに、花京院のことも欲しいと言い出したのだ。十七歳の成人式で見かけて気に入ったらしい。迷惑な話だ。
 この国では、離婚というものは認められていない。神のものになる前に誰かと結婚してしまえば、彼のものにはならなくて済む……のだが、神に目をつけられたものと結婚してくれる男も女も見つからなかった。
「と、いうわけなんだ」
「それで悪魔か。極端だな、オメー」
 花京院の家のリビングでココアを振る舞ってもらいながら、悪魔は呆れた声を出した。ちなみに彼を呼び出したのは地下室である。そっちの方が雰囲気あるし。
「神なんざクソ食らえってノリで結婚してくれそうなのが悪魔しか思い浮かばなくて。ええと、『星のアザ持つ一族』、だよな?」
「ああ。分かって呼び出したのか」
「ああ、きちんと本で調べた」
「調べて俺を選んだのか。そんなに強い神なのか?」
「え? いや、『星のアザ持つ一族』の悪魔は見目麗しい、とあったから、どうせ結婚するなら美人の方がいいかなって。女性が出てきてくれたら嬉しかったんだけど、君もすごいイケメンだから大当たりだなと思ってる」
「そこかよ……」
 悪魔はなんだか頭が痛そうな顔をした。
「オーケー、とりあえずお前の事情は分かった。いいだろう、取引に応じよう。結婚だったな? お前が、」
「待ってくれ。取引に応じてくれるのはありがたいが、その前にいくつかはっきりさせておこう。なんといっても君は悪魔なんだからな。いいか?」
「言ってみろ」
「ありがとう。あ、ココアのおかわりいるかい?」
「もらおう」
「分かった」
 花京院は悪魔の手からマグカップを受け取った。以前蚤の市で買った、お気に入りのやつだ。取っ手のところが狐の尻尾のようになっていてかわいい。花京院はそれにポットからココアを注ぎ、マシュマロを浮かべた。
「はい」
「おう。……酒や血を振る舞われることはよくあるが、こんな甘いものは初めてだぜ」
「あれっ、お酒の方がよかった? 僕まだこれから仕事するから、お酒は夕食のときがいいんだけど」
「いや、これでいい」
 悪魔は深々とため息を付いた。なぜだろう。
「マシュマロが溶ける前に飲んでくれよ」
「分かったよ……」
 悪魔は何やら疲れたように首を振った。
「で、なんだっけ。そう、取引だ。僕の要求は『結婚』だが、それは手段であって目的ではない。僕の目的は、あのゲロ吐きそうなクソッタレの神のものにならないことだ。そこが一番大事だ。そのために君と結婚するんだ。いいね?」
「おう」
「つまり、この結婚は僕が死ぬまで解消されない。そこは第一条件だ。うん、文字にしておこう」
 花京院は紙を取り出し、条件を書きつけていった。悪魔は、この青年がそこそこの地位にいることを感じ取った。高級品である紙を持っている。文字を書ける。悪魔のことが書いてある本を入手することができる。
「で、次は『結婚』の内容についてだ」
「おう。それははっきりさせておかないとな」
「そうなんだ。なんだけど」
 花京院は途方に暮れた顔をした。
「僕、孤児院育ちでさ。結婚って何するのかよく分からないんだ」
「ふむ」
 悪魔は顎を撫でた。こちらに有利な条件を盛り込むなら、ここだろう。
「ここも大事だと思うんだが、まずは君の要求も聞きたい」
「ああ。俺の要求は……」
 悪魔が己の求めるものを口に出すことは叶わなかった。ドゴォン、と大きな音がして、部屋の壁が壊れたからである。
「何だ?」
「くっ、もう来やがった!」
 花京院はさっと悪魔の後ろに隠れた。砂埃の中から姿を見せたのは。
「ハッハッハ、我が妻、花京院よ! 元気か!?」
「あんたは既に何十人も妻がいるでしょうが! 帰ってください!」
 輝く金髪をなびかせ、豊かな肉体を惜しげも無くさらした、神の登場である。もっともこの神の首から下は、別の名高い神のものを奪ったものであるが。
「ン~? そこにいるのは悪魔か? このDIOに対抗するために悪魔を呼び出したというのか? まったくシャイな男だな!」
「違います! 彼は僕の結婚相手です!」
「何?」
 神のまとう雰囲気が、急激に冷たいものになった。それはそうだろう、唾をつけておいた玩具が、ぽっと出のよそ者に取られようとしているのだ。
「おい、俺はまだ自分の要求を言ってないぜ」
「もうなんでもいい。どんな要求でも飲むから、僕と結婚してくれ」
「オメー正気か? 俺は悪魔だぜ」
「なんでもいいって言ってるだろ! 地獄で君の奴隷になる方が、あいつの妻になるよりずっとマシだ。頼む」
「嫌われたもんだな」
 悪魔は目の前の神が少々哀れに思えてきた。助けてやる気は一切起きないが。
「いいぜ、オメーと結婚してやる。おい、そこの神。こいつはもう俺のもんになったから、手を出すことは許さねーぜ」
「ぐぬぬ……」
 神は悔しそうな顔で悪魔を睨んだ。婚姻の契約は神や悪魔よりランクが上の存在に誓うものだから、たとえ神であっても他人のそれを破棄はできない。よくても不倫の状態に持っていくくらいだ。だがそれは花京院本人が断るだろうし、無理に手を出そうとすれば悪魔が黙っていないだろう。神だって、そこまでして花京院を手に入れたいとは思うまい。ただの玩具の一つなのだ。
「フン、もういいわ。せいぜい悪魔にこき使われるがいい」
 神は一気に興味がなくなったようで、フイと背を向けて花京院の部屋を出て行った。あとに残されたのは花京院と悪魔、そして破壊された部屋の壁だけだった。
「最悪だ。あいつ、壊すだけ壊して帰りやがった。なあそこの君……言いにくいな。なんて呼んだらいい? 『星のアザ持つ一族』じゃちょっと長い」
「星、だけでいい」
「じゃあ、星。壁を直すから手伝ってくれ」
「それは使役か? 俺の力で元通りにしろと?」
「え? いや、前も壊されたことがあってさ。まだレンガが余っているからね。積み上げるから手助けしてくれ。僕にレンガを渡すとか、そういうのでいい。別に魔術とかは必要ない」
「そうかよ……」
 そういったわけで、花京院は悪魔と協力して部屋の壁を直した。悪魔は始終苦々しそうな顔をしていたが、なぜかはよく分からない。
 

 

 
「さて! これでめでたく僕と君は夫と夫になったわけだ。ちなみに僕は何番目の夫なんだ?」
「一人目だぜ」
「へえ。じゃあ妻の人数は?」
「いねえ。テメーが初めての結婚相手だ」
「えーっ! えーっ!」
 花京院は思わず大声を上げた。こんなハンサムな悪魔が独り身だなんて信じられない。不能なのか?
「ちげーよ」
「あ、口に出てた? ごめん」
「あのな、俺はこう見えてかなり若い方なんだ。で、俺の一族は、まあ人間でいう貴族みてーなもんでな。ホイホイ結婚できねえようにジジイやら何やらから見張られてる。昔それで大きなトラブルがあったらしくてな」
「えーっ? 僕、君と結婚しちゃったけど」
「そういう取引だったからな」
「え、いいのか?」
「俺の一族としてはよくなかっただろうが、しちまったものは仕方ねえ。さて、じゃあこっちの要求を言わせてもらうぜ」
「ああ!」
 悪魔は自分を見つめてくる青年を改めて見やった。魔力を持つ証の赤い髪、ちょっと紫がかった黒い瞳。少々口が大きいが、十分美しいといえる容姿をしている。彼は悪魔と取引するところだというのに、口元に笑みを浮かべていた。そんなに嫌だったのか、あの神。
「僕、そもそも結婚生活が何をするのか知らないんだ。言ったと思うけど」
「ああ、聞いたぜ」
「だからよかったら、それについても教えて欲しい」
「と言われてもな。俺も悪魔だから、人間の結婚についてはよく分からんぞ。セックスとかするんじゃあねえか」
「あ! 聞いたことあるぞセックス! なんかこう、アレしてアレするんだろ」
「分かってねーんじゃねーか。ハァ……」
 悪魔はこめかみのあたりが痛くなるのを感じた。この人間、大丈夫か。だが、『どんな要求も飲む』人間との結婚生活、面白くなりそうだ。
「そうだな、じゃあ俺の要求は、まず………」