半分には満たない

「どうもー、悪魔です。よかったら取引しませんかー」
「………新手のスタンド使いか?」
 承太郎はスタープラチナを出して身構えた。深夜の自室、眠りに就く寸前、突然目の前に不思議な生物(だろうか?)が現れたら、そういう反応になってしまっても仕方ないだろう。
「あー、違います違います。スタンド使いじゃないです。まースタンドは見えますけど。私は悪魔ですよー。死神も兼業してますけどね。えーっと、なんだっけ」
 その自称悪魔は手にした書類に目を落とした。
「そう、空条承太郎さん。あなたといい取引ができそうなんで来ました。いやね、私も業績上げてマイホーム欲しいんで。地獄にですけど」
 承太郎はそう言う悪魔をまじまじと見やった。人の姿はしていない。例えていうなら猫が近いが鼻がなく、獣っぽい顔つきをしていない。体の色は薄い桜色である。二足歩行をしていて、右手に書類、左手にくたびれたビジネスバッグを持っている。声色は若い男性のように聞こえた。スタンドにしては、はっきりしすぎている。
「まだスタンドかもって疑ってるんですか? まー仕方ないか。大丈夫、気を楽にしてくださいよ。私は仕事の話、っていうかセールスに来てるんで。敵ではないです」
 よっこいせ、と言いながら、桜色の悪魔は承太郎の寝室の椅子に勝手に座った。
「空条さんもどーぞ、ベッドに座ってくださいな」
 そう言われて、承太郎も腰を下ろした。この悪魔からは、敵意は感じ取れない。図々しいことこの上ないが。
「えーっと、空条承太郎さん。私が持ってきた取引ってのは、あなたの想い人、花京院典明さんの目を覚まさせるというものです」
「そんなことができるのかッ!?」
 承太郎は思わず大声を出していた。花京院典明。承太郎の、そう、ずっと想っている相手である。
 彼とは高校生の時分、共にエジプトへの行軍に参加した仲だ。彼はその旅のクライマックスで大怪我を負い、それから十年間ずっと、病院のベッドの上で昏睡状態にある。承太郎が懇意にしているスピードワゴン財団の高い医学力をもってしても、あるいは超常的な力をもってしても、彼が目を覚ますことはなかった、のだが。
「どんな方法で花京院を目覚めさせるというんだ? 今まで手を尽くしたが、何の成果も得られなかったんだぞ」
「そりゃねー、こっちはアプローチの方向が違うんですよ。いいですか、この世の物事には法則がある。この世界に属するものは、この世界という枠組みの中で存在する。ですがね、私のような死神――失礼、今は悪魔でしたね。いえね、どちらかというと死神の方が本業なもので。いえ、悪魔としても一流ですし、人間を狩る死神じゃないんで安心してください。で、その悪魔はこの世界に属していない。この世の法則の外から、この世とは別の力で、ま、チートアクションを起こすわけですな。デウス・エクス・マキナってご存知ですか?」
「ああ。物語において、混乱した局面を絶対的な力で無理やり解決する、『機械仕掛けの神』だろう」
「そうそう、そんな感じ。つまりあなたがた人間では真似できない方法で彼を覚醒させられますよってことです」
「成功率は」
「取引が成立すれば100パーセントですね」
「………取引とやらの、話を聞こう」
 承太郎の言葉を聞いて、悪魔は笑みを見せた。とはいっても、一般的に考えられるニヤリといった具合のものではなく、なんだかほっとしたような顔だった。
「ほんと? あー、よかった。ボーナスに響くんですよね。じゃーこれ、資料と契約書です」
 承太郎は悪魔から書類を数枚受け取った。羊皮紙とかそういうアレではなく、文字もプリントされたものだ。
「我々が求めるものは、ズバリ魂です。あなたの場合、欲するものが他人の健康なんで、お持ちの魂の、あ、そっちの資料です。そこのαの部分とγの部分だけで大丈夫です。数値でいったら魂の46.3パーセントになります。こっちも仕事なんで、お話の悪魔とは違ってセコいことはしないんで安心してください。それをいただければ、花京院さんの目は覚めます。人格が変わっているだとか、またすぐ眠りに就くだとかはありません。その辺の詳しいことは契約書の方にしっかり書いてあるんで、目を通しといてください。じゃー、明日のまた同じ時刻に来ますんで、それまでに考えてもらえれば」
「今決めなくてもいいのか」
「そんな強引なセールスしませんよー。他の人とも相談してもらっても大丈夫です」
「俺の頭が疑われるな」
「はは、それはそうかもしれませんね」
 悪魔はゆるい感じに笑うと、「じゃ、今日はこの辺りで失礼しますねー」と言って消えた。承太郎は一人寝室の中で、残された資料と契約書を見ていた。
 資料によると、承太郎が失うものは、主に『感情』だった。喜怒哀楽が非常に薄くなり、場面によってはまったく感じないということも起こりうる。心を揺さぶられ、大きく感動するということができなくなる。その他には、人との繋がりに興味が持てなくなり、人と会話するのが億劫になる。対して、思考や理性に関するところは一切取られない。身体に影響するところもそのままだ。……なるほどなるほど。
 承太郎は次に、契約書に目を通した。花京院が、本当に、必ず、元の彼として、目を覚ますのか。………ふむ……。
 承太郎は資料と契約書をまとめてファイルに閉じ、その日は眠ることにした。
 
 

 次の日まったく同じ時刻に、桜色の悪魔は宣告通りに現れた。
「どうもー、空条さん。こんばんは」
 悪魔は眠そうに頭の後ろをかきながら、しまらない顔をした。承太郎にはどうでもいいことであるが。
「資料と契約書を読ませてもらった。確認しておきたいのだが、この契約が守られる保証はどこにある? それに、お前は本当に花京院を起こすことができるのか?」
「んー……」
 悪魔は頬をポリポリした。
「その辺は信用してもらわないと……んー、じゃあこうしましょう。この場では仮契約ってことにしておいて、花京院さんの目を覚ます。あなたが、彼がちゃんと起きたと認識したら、その瞬間に本契約が成立する。それでどーですか」
「……いいだろう。この取引、受けよう」
 承太郎がはっきりそう言うと、悪魔はニッと笑った。
「どーもどーも、ありがとうございます。妻にもいい報告ができますよ。じゃーその契約書に本名書いてもらって、あ、そこです、はい。で、その横に血印もらえます? ちょっとで大丈夫です。空条さんの血って分かればいいんで。どーも、それでオッケーです。はい、ありがとうございますねー」
 悪魔は承太郎から契約書を受け取った。
「これで仮契約成立です。さて、花京院さんですが、いつ起こしますか? 明日? 次の日曜? それとも今すぐ?」
「できるのか」
「もちろんです。こちとら悪魔ですよ」
 悪魔は少々クマのある目でウインクしてきた。
「だったら、今、すぐに」
「分かりました。本契約は自動で行われるんで、私はこれで」
 桜色の悪魔はペコリと頭を下げ、そして跡形もなく消え去った。
 途端、ジリリリリ、とベッド脇の電話が鳴った。受話器を取った承太郎の耳に飛び込んできたのは、馴染みのスピードワゴン財団の医師の声だった。
「空条博士、た、大変です! 花京院さんが……!」
「どうした、落ち着いて話せ」
「花京院さんが、目を、覚ましましたッ!!」
「……分かった。すぐ行く」
 真夜中であったが、承太郎はコートを着込み、車を飛ばして病院に向かった。病院では医師や看護師たちが慌ただしく動いていた。
「あッ、空条博士! お疲れ様です! すみません、なぜ花京院さんが起きたのかはまだ調査中で」
「それはいい。今、面会できるのか?」
「可能です。精密検査の準備を大急ぎで進めておりますので、その前にお会いできるかと」
 承太郎はその話を聞きながらも、花京院の病室へと歩を進めていた。この十年、通いに通った道だ。
 扉は開いていた。看護師たちが出たり入ったりしている。承太郎は少々緊張しながら、彼専用の病室に足を踏み入れた。
「……承太郎?」
 彼はベッドの上に体を起こしていた。その目が開かれているのは、実に十年ぶりだ。
「花京院……俺が分かるのか」
「もちろんだよ。君、ちょっと大人びたなあ。十年たったんだってな、聞いてびっくりしたよ。ずいぶん待たせてしまったようだね」
 そう言って、花京院は笑みを漏らした。この十年、承太郎が頭の中で何度も何度も繰り返した笑みだ。花京院が起き上がったなんて、まだ信じられない。
「花京院……」
 承太郎は自分の目が潤むのを感じた。喉が熱い。
「花京院……!」
「承太郎」
 花京院はすっかり細くなってしまった腕を広げた。承太郎は求められるまま彼に駆け寄り、その体を掻き抱いた。折れそうなほどに細い。抱き返してくる腕にも力がない。それでも、彼はそこに存在していた。その目に承太郎を写していた。
 ああ、彼は帰ってきたのだ! 承太郎はそれを強く強く実感した。そして、
 

 
 

 自分を抱きしめる太い腕の力がふっと緩んで、花京院は首を傾げた。
「承太郎?」
 彼は花京院から体を離した。その顔には、先ほどまでの歓喜の表情は見当たらない。
「承太郎……?」
「目を覚ましてくれてよかった、花京院。このあと精密検査があるそうだ。それが終わったら、ジジイやおふくろにも会ってやってくれ」
「ああ、もちろんだ。承太郎、君は」
「俺は検査が終わるまで控室で待っている」
「そうか」
 花京院は自分がほっとするのを感じた。承太郎が急に、能面のような顔になってしまったから、何かしてしまったのかと焦ったのだ。
「それが終わったら、今後のことについて話し合おう」
「あ、ああ」
「俺としてはお前と暮らしたいと思っているが、しばらくはリハビリの生活だろう」
「そうだろうね」
「それは主治医も交えて話し合った方がいいな。じゃあ、俺は控室にいるぜ」
 そう言うと、承太郎はくるりと背を向けて、そのまま病室を出て行った。一度も振り返らなかった。花京院はその背中を、ぽかんとしながら見送ることしかできなかった。