悪魔の祝福

「悪魔と取引をしたんだ」
 それが空条承太郎の口癖だった。
 彼は何でもできる男で、おおよそ人が欲しいと思うものはすべて持っていた。美しい容姿、立派な体格、明晰な頭脳、抜群の運動神経。もちろん金もあれば家柄もあった。有名な父親と優しい母親、その上彼自身も、まあ不良ではあったが情に厚い、いいやつだった。
 人は聞いたものだ。どうしてそんなに色んなものを持っているのか、と。すると彼は決まってこう言う。
「悪魔と取引した。だから俺には何でもある。たった一つを除いて」
 けれど彼は、その一つが何かはついぞ教えてくれなかった。もちろん人々だって、そんな話を真に受けたわけではない。彼が何もかもを手にしているのは、生まれつきだ。私たちではどうしようもない。だから彼は、あんな冗談を言うのだ。
 だがあれは、悪魔と取引したというよりむしろ、天から祝福を受けているといった方がいい。ジョークのセンスだけはないのだろうか?

 さてそんな承太郎であるが、一つ欠点を上げるとするならば、彼には友人がいなかった。まあ、それも仕方なかろう。彼の隣に立つのには、非常に勇気がいるのだ。承太郎の持つありとあらゆるものに潰されてしまうか、彼に勝手に恨みを抱いているタチの悪いやつらに狙われてしまうか。
 そんなだから、空条承太郎十七歳の春に転校してきた一人の少年を、気に入ってそばに置いているというのは、瞬く間に噂になった。
 彼の名前は花京院典明。彼を一目見るなり、承太郎はニヤリと笑って、
「よう、久しぶりだな。会いに来てくれたのか?」
と言ったそうだ。花京院が答えて曰く、
「なに、様子を見に来ただけさ」
 彼らはその日から、二人でつるんで行動するようになった。
 花京院は承太郎ほどではないが見目麗しく、承太郎ほどではないが頭もよく、承太郎ほどではないが一人で不良たちを退治できるほどには強かった。周りもすぐに、花京院がただの金魚の糞ではないと認めることになった。
 承太郎の口癖は先ほど述べた通りだが、花京院の口癖もまた変わったものだった。その口癖というのは、毎回承太郎にだけ向けられる。内容はこうだ。
「楽しんでるかい?」
 それに対する承太郎の返答は、いつも同じだった。
「ああ。だがそれは、おめーがいるからだ」

 空条承太郎十七歳の冬のことである。
 彼は眉目秀麗であるからして、それはもうモテにモテた。バレンタイン・デイともなれば、机の上から中から、下駄箱からロッカーまで、チョコレートの包みが氾濫したものだ。花京院はそれを見ながら大笑いしていた。
 かくいう彼も、女子からいくつかお菓子をもらっていた。他の男子に比べれば多い方だ。承太郎が精一杯の皮肉を込めて、
「モテるんだな」
と言うと、彼は笑いながら
「本命チョコは一つももらっていないよ。断った」
と返した。
「そんな面倒なもの、もらう気はさらさらないね」
「そうか」
 承太郎は持参した紙袋にチョコの包みを機械的に詰めていった。
「どうするんだい、それ?」
「全部捨てる。元になった材料たちには悪いが。何が入っているか分かったもんじゃねえからな。手作りは特に」
「あっはっは、大変だなあ」
 承太郎はいっぱいになった紙袋を焼却炉まで持って行った。それらをすべて捨ててから、視線を彷徨わせ、それでもとうとう学生鞄から可愛らしい包みを取り出した。
「ん、もう一個残ってたのか?」
「いや、これは俺が買ってきたものだ。……お前に」
 そう言うと、花京院は目をぱちくりさせた。
「つまりそれは、本命ということかな」
「そうなるな」
「だったら、」
 花京院の唇が弓なりにしなる。
「それは、受け取れないなあ」
「どうしてもか?」
「どうしてもだ」
「俺は、他のやつから押し付けられたチョコは全部捨てた。なぜならいらないからだ。おめーにとっては残念なことに」
「本当に残念だ。だけどそれとこれとは話が違う。僕はそれを受け取るつもりはないよ」
「そうか」
 承太郎はチョコを差し出していた手を引っ込めた。
「それはそれとして、今日うちに遊びに来ねえか? おふくろがチョコケーキを焼いていた」
「いいね、行くよ」
 そこで二人はいつもの放課後のように空条邸に遊びに行った。漫画を読んだりゲームをしたりして、二人は楽しく過ごした。花京院が帰っていったあと、承太郎は一人で自分の買ったチョコを食べた。
 

 空条承太郎十八歳の秋のことである。
 彼は海洋生物学をやるために渡米することにした。
「英語はともかくとして、とにかく勉強はできないと駄目だよなァ」
 花京院がニヤニヤしながら話しかけてきた。
「お前に協力してもらわなくとも大丈夫だ」
「本当に? では邪魔しても?」
「大歓迎だ」
 それを聞いて、花京院は承太郎の頭をひと撫でした。それから花京院は、試験勉強に勤しむ承太郎の元にやってきては、お出かけやらゲームやらに誘い、隙あらば彼の邪魔をした。
 そして承太郎はアメリカの大学に現役合格した。ちなみに花京院も同じ大学に合格した。彼の場合は、ほとんどズルのようなものであったけれど。そうして二人は、アメリカでルームシェアすることになった。
 

 空条承太郎十九歳の春のことである。
 彼は学業の関係で、一ヶ月単位で海の上にいるという生活をしていた。港に寄るたびに花京院に手紙を出すものだから、すっかり二人はパートナーだと認識されていて、花京院はブーブー言っていた。
 ところで海上調査というのは体力がいるものだ。もちろん知力だって必須だし、むしろ脳筋さんなどお帰りいただきたいのだが、筋肉で解決できることがあるのも事実である。
「だが研究チームには女性もいる。俺に筋力がなくとも、そりゃ確かに今より不便にはなるだろうが、調査そのものには支障は出ねえ」
「本当?」
「試してみるか?」
 その次の月、承太郎は少々痩せた姿で調査に向かった。一ヶ月ほどして、彼は無事に帰ってきた。調査の結果は上々だったらしい。
 

「サンプルがだんだん短くなってきてないか?」
「だったら次は金の話をしようか」

 空条承太郎二十歳の夏のことである。
 彼の祖父の会社が倒産した。ついでに父親が権利関係のゴタゴタに巻き込まれて、大量の借金をこさえた。
 承太郎と花京院は高級マンションから苦学生向けの下宿先に引っ越した。承太郎はアルバイトを始め、学業と合わせて忙しい日々を送ることとなった。
「辛いかい?」
「まさか!」
「ではもしかして、楽しんでいるのかい?」
「もちろんだぜ。なんたっておめーが隣にいるんだからな」
 その返答に、花京院は顔をしかめることしかできなかった。
 やがて承太郎の祖父はその商才を発揮して新しく会社を設立し、父はイザコザが終結してまた安定した収入を得ることができるようになった。承太郎と花京院は下宿先のホストにお礼の品を渡し、マンションに戻った。
 

 空条承太郎二十一歳の秋のことである。
 その年は二人にとって転機となる……いやならないかもしれないが……少なくとも花京院にとってはそうならせる予定の年であった。
 その花京院はといえば、ぶーたれた顔で承太郎の肩に自分の頭を乗せていた。ちなみに場所は二人の部屋、二人で選んだソファの上である。少々古いが座り心地がよく、見た目もかっこよくて気に入っているやつだ。
「承太郎、どうして君、僕が紹介したあの女性を抱かなかったんだ?」
「そりゃおめーがいるからな。好きなやつといるってのに、どうして関係ない、どうでもいいやつを抱かなきゃならねーんだ?」
「だってそうしないと、子供ができないだろう」
「やっぱりな。それを狙ってるんだと思ってたぜ。おおかた俺がどんなに避妊しようがガキができるようになってんだろ。それで俺を、あいつと結婚させようって魂胆なわけだ。なんだったか、あいつ……名前は忘れたな。アメリカ人にしては珍しく控えめでおしとやか、俺の三歩後ろを歩くようなやつだったな。顔も家柄も、性格も悪くなかった。だがあいにく、俺にはおめーが隣にいるからな。親しくなるのはお断りさせていただいたぜ。残念だったな、花京院」
 承太郎がニヤリと笑うと、花京院は歯ぎしりして悔しがった。
「君の好みのタイプは大和撫子なんじゃなかったのか!」
「確かにタイプで言えばそうだが、そんなもの関係なくおめーに惚れてるって言ってんだろ」
「ぐぅ……」
 頭を抱えた花京院の頬を撫でながら、承太郎は
「なあ花京院、ここいらで一度整理してみようぜ」
と切り出した。

「まずあの日、俺とおめーが出会ったのは偶然だった。間違いないか?」
「ああ。僕はたまたま人間界に遊びに来ていて、たまたま君を見つけた」
「そこで俺のことが気に入ったおめーは、取引を持ちかけた。齢四歳のガキに。まあそんなもんはどうでもいい。おめーはこう言った。俺の欲しいもんを何でもくれてやるから、俺が死んだあとの魂をよこせ、と」
「その通りだ。僕はなんだって用意してやるつもりだった。金だって地位だって女だって! なのに君ときたら!」
「そうだな。ガキの俺が欲しがったもの、それは目の前で蠱惑の笑みを浮かべる悪魔、つまり花京院、てめーだったわけだ」
「どんだけマセガキなんだ!!」
「俺だっておめーのことを気に入ったんだから仕方ねえだろ。しかし、取引を持ちかけてきたのはそっちだっつーのに、てめーはそれはできないと言い出した」
「当たり前だろう。僕は悪魔だぞ。人間のものになるなんて冗談じゃあない」
「そこでおめーはこう言った。金も地位も女も、ありとあらゆるものを俺にくれてやるから、十年かそこら、本当にいらないか考えろ、と」
「そうだよ。何もかも思い通りになる人生は楽しいだろう。このままずっと楽しませてやるから、取引内容を考えなおすんだ」
「嫌だね。何度言わせる? 俺はおめーが隣にいるから楽しいんだぜ。金も地位も女も、どれも必要ないってのは、今まで散々サンプルを上げただろう?」
「くうぅ……」
 花京院は今や、赤い角と緑の肌をあらわにして、これも二人で選んだ絨毯の上で地団駄を踏んだ。
「どうして君は僕を選ぶんだ! この世のすべてをあげるって言ってるのに!」
「この世のすべてよりもお前が欲しいからに決まっているだろう」
 承太郎は花京院の燃えるような赤毛を愛おしそうに撫でた。そのまま、彼の一房長い前髪をすくいあげ、くちづける。
「ガキの頃にひと目見て分かった。お前を手に入れるためなら何でもできる。その代償が死後の魂だなんて、安いもんだ」
「分かってない。君は全然分かってない!」
 花京院は牙の生えた歯をギリギリ言わせているが、髪は承太郎の好きにさせている。
「死後の魂を悪魔に取られるってことは、君は行くべき天国には行けず、生まれ変わることもできず、ずっと僕の元にいるってことなんだぞ!」
「ほう? ずっと、というのは永遠にという意味か?」
「そうだ。正確には最後の審判の日までだけど、それまでは永遠に、だ」
「そいつは歓迎も歓迎だ。だったら逆に聞くが、なぜ俺のものになりたがらないんだ? 何が嫌なんだ?」
「人間のものになるなんて絶対に嫌だね! 何をされるか分かったもんじゃない」
「じゃあ何をするか先に言っておけばいいのか?」
「うん……? 何をするつもりなんだい?」
「俺は死ぬまで、おめーと一緒にいたいと思ってる。今まで通りな。それ以上でも以下でもない」
「んん? 君は僕を捕まえて、何か悪事をはたらくつもりではないのか?」
「そんなつもりはねえよ」
「だったら僕に何かひどいことを? 角を折るとか、尻尾を切り取るとか」
「それもねえよ。おめーのことが好きだから、ずっと隣にいたいと思ってる。死んだあともおめーのそばにいられるってなら大勝利だ。おめーが俺の魂を欲しがるように、俺もおめーのことが欲しい」
「そうなのか? んんん……今まで通りということか……?」
「そうだぜ。俺が心変わりをしないかどうか、死ぬまで見張るんだろう? だったら何も変わらねえよ」
「ええ……なら君のものになっても問題はない……のか……?」
「そうだぜ! なあ、俺のものになってくれよ。それで死後、俺はおめーのものになる。どちらも得をする話じゃねーか?」
「うーん、なんだかごまかされている気もするが……いいだろう。そんなに言うなら、まあ君が死ぬまで一緒にいてやるよ。仕方ないからな」
「そいつぁよかった」

 こういったわけで、二人はここ数年と同じように、これから先もずっと隣にいることに決めたのであった。
「楽しんでるかい、承太郎?」
「もちろんだ。なんせおめーが隣にいるからな!」