神々のこどもたち – ヘロデアの息子

 
母が呼んでいると言われたので、急いで身支度を整えて赴いた。
途中、サンダルの紐が切れ、盛大に転んでしまった。
このサンダルはもう何年も使っていて、すぐ紐が切れるし底も擦り切れているのだが、新しいものを求めても「そのうち」と言われるだけなので、諦めてつくろいながら使っている。
母が横になっているところへ、一礼をして近付くと、すぐに顔についた泥に目を留められた。
「また転んだのかい。どじな子だねえ。まさか顔に傷をつけなかっただろうね」
「はい、大丈夫です」
町の子供たちが、遊んだり仕事を手伝ったりしている最中に傷をつくっても、なんにも言われないのが心底羨ましい。
女の子のように見た目に気を使うのは、それが母の意向だからだ。
「ノリアキ、おまえ、あの預言者のところへ行っておいで」
気だるそうに手を振りながら母がそう告げた。
その預言者が誰かなどは、言われなくても分かる。
王が捕らえている、西方の血を引くという預言者だ。
一度だけ、遠目に見たことがある。
とても背が高くて、日に光る緑色の目が印象的だった。
「あいつ、王とあたしが結婚しているのはよくないって、まだ言うのよ」
ぶつぶつと、母が何か言っているのが聞こえる。
少年の父は、王ではない。
王の弟が少年の父である。
母は、王とその弟の、二人と結婚している。
例の預言者はそれを批難するので、母の機嫌をずっと損ねているのだ。
母は人をやって預言者を殺してしまおうとしているらしいのだが、王がかくまって、今までのところ成功していない。
王も彼をわずらわしく思っているようだが、民衆が信仰するので恐れて、殺すのまではできないらしい。
「おまえは王の気に入りだから、直接会うのは無理でも、閉じ込めてある外から話すことはできるだろうよ。行って、考えを改めるか、この国から出て行くかするように、説得しておくれ」
「はい、分かりました」
そう言って出てきたはいいものの、そんなことができるとは思えなかった。
自分程度の言で考えを変えるなら預言者などやってはいないだろうし、王が恐れながらも相談相手としても用いていると聞くから、この国から出て行かせるのも無理だろう。

 
 

「そういうわけで、あなたの前まで来たはいいけれど、どうしようかと困っているのです」
そう言うと、低く心地よい声が返ってくる。
「おれが思うに、おまえは早くその母から離れたほうがよい。ひとりでは食っていけないのか」
「それは無理でしょう。ぼくは魚をとることも、木を切ることもできません」
「それではおまえは何を教えられてきた?」
「踊ることです。王や将軍、神官たちの目を、楽しませるだけです」
「踊り子には、旅をしながら踊りを見せるものもいる。宮殿付きよりずっと辛い生活だろうがな。おれも元々流浪の身だった。この国に二度と近付かないと誓いを立てるなら、ここから出してやってもいいとは言われている。そのときには……旅連れがいるのも悪くない」
ぱっと顔を上げた、少年の目がひどく輝いていたのを、しかし鉄の扉の向こうにいる預言者は見ることができなかった。
「次の満月の夜、王の誕生日の祭典があります。ぼくはそこで踊ることになっています。それが終わったら……」
「ああ、それが終わったら」

 
 

かくして満月の夜、父の兄であり母の夫である王の前で、少年は舞った。
一面漆黒のヴェールにぽっかり浮かぶ月のように、青白く淡く光る肌と、艶かしく泳ぐ細い手足は、横たわる王やガラリアの高官たちが溜め息を漏らすのに充分だった。
母が貸し与えた大量の装飾品は少年の身には重すぎたが、気にする者は誰もいなかった。
踊りが終わったとき、王はたいそう満足して笑み、褒美をとらせると言った。
「何でも欲しいものを求めなさい。王国の半分までも、おまえに上げよう」
そう言われたときには、新しいサンダルを求めようと思っていた。
預言者と旅をするのに、今のサンダルでは心細い。
ところが少年が口を開きかけたそのとき、聞きなれた口笛が耳に届いた。
母だ。
常のように駆けつけると、母は暗い目をして指図した。
「バプテスマを施す者の首を」
そこで少年は急いで王の元へと戻り、こういった。
「バプテストのジョウタロウの首を大皿に載せて、今すぐお与えくださいますように」
王はたいへん憂えたが、自分の誓い、そして一緒に横になっている者たちの手前もあって、それを与えるようにと命令した。
すぐに護衛兵の一人が獄の中で預言者を打ち首にし、大皿に載せて持ってきた。
銀の皿に載る預言者の顔は血の気がなく、髪はいやなにおいのする水で濡れていたが、その両目はやっぱりすてきな緑だった。
 

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首を見せると、母は顔をしかめながらも、
「お寄越し」
と言った。
ところが少年は、
「これはぼくが与えられたものです」
と言って断った。
息子が反抗したのは初めてだったので母は驚いた顔をしたが、預言者の首に関してはただ豚にでもくれてやろうと思っていただけだったので、少年の自由にさせることにした。
「だけどおまえ、それを腐らせて、あたしの前に持ってくるんじゃあないよ」
「はい、大丈夫です。二度と母上にはお見せいたしません」

 
 

その夜、生まれて初めて盗みをはたらいた。
けれど肝心の、被害にあった方は、求めればすぐに新しいものが手に入るので、月夜にサンダルが一足なくなったことなんて、すぐに忘れてしまった。