いたち

 
むかしむかし、ギリシアで、ねずみを捕まえるのがうまい動物として、いたちが飼われていたころのお話です。
この家にも、よく働く赤毛のいたちが一匹がおりました。
このいたちが毎日きちんと、食べ物を荒らすねずみどもを捕らえるので、この家ではねずみに悩まされる夜はありませんでした。
いたちの持ち主は、このいたちをよく労ってやり、少々長い毛足も無理に刈り込むことはせず、一束長い前髪からふさふさとした尾まで、毎日丁寧にくしを入れてやりました。
それでこのいたちの方も、この飼い主が大好きでした。
飼い主の青年は、いたちに優しいだけでなく、人々の目を引く美しい容姿を持っていました。
けれど彼は、立派な体格や彫りの深い顔立ちといったものに惹きつけられてきた女性の誰をも相手にせず、その緑に輝く双眸は、ただいたちにのみ向けられていました。
そんな風に、青年が自分ばかり見るものですから、いたちはこの飼い主に、熱い思いを抱くようになってしまいました。
けれどいたちはいたちですから、青年の膝の上を温めながら優しく背を撫でてもらうことはできても、この思いを遂げることなどできやしません。
いたちは燃える恋にその小さな体を焦がし、とうとう美と愛欲の女神アフロディーテに、自分を人間へと変じさせてくれるよう必死に願いをかけました。
切ない思いを聞き取ったアフロディーテは、その願いを叶えてやることにしました。

 

承太郎は、夕飯に使った鍋をさっと洗って、それにスプーンを打ち付けてカンカン音を立てました。
ところが、常日頃のように、いたちが姿を見せません。
承太郎は首をひねりました。
彼のいたちはとても賢く、昼間どこかへ出かけても、夕刻にはきちんと帰ってきますし、物置の暗がりでねずみを獲っていても、こうやって鍋を鳴らせば、餌を求めて顔を出すのです。
けれど今日は、あの赤毛がどこにも見当たりません。
どこか、いつもよりも遠くまで遊びに出たのでしょうか?
承太郎は、あのくりくりした黒目が見つからないかと、家の外へ出てみました。
するとそこには、この村では見たこともない、一人の青年が立っていました。
彼の体はすらりとして細長く、ふわふわと長い前髪は、燃えるような赤毛でした。
彼は承太郎と目が合うと、ふっと顔を伏せて目を泳がせてから、決心したように顔を上げました。
「あの、こんにちは。僕は旅の者です。もう日も暮れるところなので、その、泊まるところを探しているのです。あの、その、もしよかったら……」
承太郎はこの線の細い青年のことが妙に気にかかり、
「まあ、とりあえず入れよ」
と招き入れました。
冷たい水を振る舞ってから名を尋ねますと、彼は
「花京院といいます」
と名乗りました。
承太郎は驚きました。
彼のいたちと同じ名前だったからです。
それは、小さないたちのために、承太郎が古代の法皇にあやかってつけた名でした。
だから人名としては一般的ではありませんが、同じような由来であることは考えられることでした。
彼は承太郎の夕食後の一仕事を、控えめに手伝いました。
承太郎は、彼がよく気がつくだけでなく、どこに何がしまってあるかまでよく知っているようなのに、また驚くことになりました。
承太郎はすぐに、花京院が熱っぽい目で自分を見つめているのに気が付きました。
村の娘たちが向けてくる視線に似ていたからです。
ですが不思議なことに、彼女らに送られる秋波は鬱陶しいだけなのに、花京院のそれは、何故だか不快ではありませんでした。
彼がそれを、押し付けようとはしないからでしょうか。
けれど承太郎は、このお客に奇妙なほど心惹かれていたものの、他にもっと気がかりなことがあったのです。
それはもちろん、彼の可愛いいたちのことです。
彼は花京院に、自分のいたちが見当たらないのだが、それらしいものを見かけなかったかと尋ねました。
「ちょうど、あんたの赤毛のような色をしているんだが」
花京院は困ったような顔をして答えました。
「いいえ、この辺りでは、いたちは目にしませんでした」
落胆した承太郎はため息を付いて、それでは自分はいたちを探しに出かけるから、気にせず休んでいけ、寝室のベッドを好きに使っていいから、と言って立ち上がりました。
「けれどもう、外は真っ暗闇ですよ」
「だからこそだ。こんなに暗くては、どこかで迷っているかもしれない俺のいたちが、家の方角を見失ったらいけねえ。……寝室へ案内するぜ。こっちだ」
花京院はやっぱり困ったような表情で、けれどおとなしく承太郎に従いました。
花京院は、承太郎の大きめのベッドに腰掛けると、彼の上着の裾を掴みながら、とろんとした目で見上げてきました。
その目の熱さに引き寄せられ、承太郎は花京院の顔へ、自分の顔を近付けました。
彼らの唇が触れ合おうとした、その時です。
その様子を天から見ていたアフロディーテが、花京院がきちんと心根まで人間になったかどうか確かめようとして、寝室に一匹のねずみを放ったのです。
それを目の端に捉えた花京院は、もう承太郎の唇などそっちのけで、四つ足で部屋中を駆け回ってねずみを追いかけました。
人間というものは、口が大きいわりには鼻面が短くて不器用ですから、彼はそのねずみに噛み付くことができずに、それを取り逃がしてしまいました。
けれどその動きは、彼の正体が一体何者であるか、推測するのに十分でした。
そのさまを見て、怒り心頭アフロディーテは、花京院を元のいたちの姿に戻してしまいました。
花京院は、肩を落としてうなだれました。
いたちであるというだけで、好きな人とキスさえできないとは。
ですが承太郎は、部屋の隅で小さくなってしまったいたちを抱き上げて、その鼻に音を立ててキスをしました。
つぶらな黒い瞳をぱちくりさせているいたちに笑いかけます。
「お前が花京院だったんだな。迷子になってるわけじゃあなくてよかったぜ、安心した。そうか、お前、俺のことが好きだったんだな」
そう言って承太郎がまた肉厚の唇を寄せてくるので、花京院も今度は、その細長い体をくねらせてそれに応えました。
それからいたちは、飼い主によくかわいがってもらい、以前にも増してはりきってねずみを捕まえたそうですよ。