絵の中の絵

仕事で、普段下りない町に下りた。商談はスムーズに進み、花京院は想定より早く帰れることになった。ついでなので、町を少し歩いてみる。奥まったところに古本屋を見つけた。店先に出ている特価の本が、だいぶ色褪せているような、そんな店だ。
何の気なしに入ってみて少々驚いた。こういうところの店主といえば、白髪の老人だと勝手に思い込んでいたが、奥のカウンターになっているところの向こうに座っていたのは、モデルか俳優かといったようなハンサムだった。彫りの深い顔立ちに、よく鍛えられているのが服の上からでも分かる、映画かむしろ作り話か何かから出てきたような美丈夫。匂い立つような色香。しかし不思議と、彼はこのしなびた古本屋によく似合っていた。店主は入ってきた花京院をちらりと一瞥しただけで、すぐに手元の本に視線を戻してしまった。
花京院は別に、何か欲しい本があったというわけではない。だがこの店が、なんだか気に入って、棚をゆっくり眺めて回る気になった。そうしているうちに一冊、タイトルと表紙が気になる本を見つけた。値段も安いし、もしハズレでもダメージはないだろう。
「これをください」
差し出すと、店主は本の背表紙に貼ってあった値札を見て金額を告げた。花京院が小銭を渡すと、彼はこれまた古いレジスターで精算をした。それを見ていて気がついたのは、彼の目は緑色をしているということだった。外国の血が混ざっているのだろう。
買った本を受け取って、妙に楽しい気分で帰路についた花京院は、またこの辺りで仕事があったならあの店に寄りたい、と思っていた。

さて家に帰り着き、花京院は早速購入した本を開いた。なかなか面白い。つい夢中になって読み進めていたら、何かが本の間からひらりと落ちた。拾い上げてみれば、それは金属でできた一枚の栞だった。金色の透かし模様が美しい。花京院は貴金属には詳しくないが、なんだか高級なもののように見えた。
古本に出ていたものだから、持ち主に届けるのは難しいだろう。だが一応、あの古本屋に持って行こう。そう思って花京院はその週末、もう一度あの店に赴いた。そこは相変わらず古びていて、店主は相変わらず美しかった。
花京院は「あの、これ」と例の栞を差し出した。
「この間買った本に挟まっていたのです」
「そうか」
店主はそう言っただけだった。花京院は戸惑った。
「あの、それで……これ、お返しします」
「なぜ?」
「なぜって……これは僕のものではないから」
「ああ、それは俺のものだ。前に母親から贈られた。なくしたと思っていたが、本に挟まっていたんだな」
「そうだったんですか! よかった、お返しできて」
「なぜ?」
「え、なぜ、って」
「それはお前が買った本に入っていたんだろう。だから今はお前のものだ」
「えええ?」
花京院は困った顔で目の前の男を見た。栞も高級そうなものだったが、彼が身につけている服も、とても上品で高級品の匂いがする。もしかしたら、金持ちの道楽でこの店をやっていて、金銭感覚がおかしいのかもしれない。
「そんなことを言われても、さすがに悪いですよ」
「じゃあこうしよう」
「え?」
店主は口角をニヤリと上げた。
「お前はその栞を使って本を読んで、感想を俺に伝えるんだ。別にうちで買った本じゃあなくてもいい。雑誌でも、漫画でも構わない。そうだな、うちに毎回来てもらうのもなんだから、俺の電話番号とメールアドレスを渡しておこう。そこに伝えてくれ」
「……本が好きなんですか?」
「まあそんなとこだ」
押し問答の末、最終的に店主の好意に甘えることにした花京院は、自分の電話番号とメールアドレスを置いていった。それを手に、店主がガッツポーズをしていたことを、彼はまだ知らない。

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花京院は真っ青になって宝石箱をひっくり返した。ない。どこにもない。どれだけ見てもない。両親をなくした花京院の後見人となった叔父が、花京院が継ぐ予定の財産に手をつけていることは知っていたが、まさか母の形見のエメラルドのネックレスにまで手を出しているとは!
花京院は小刀を手に叔父の家を訪ね、刃をちらつかせてネックレスを売り払った先を聞き出した。そうして彼は、さる錬金術士の元へ行くことになったのだ。
錬金術士の家は、大きな町の一番隅の区画にあった。花京院が扉をノックすると、ややあって一人の若い男が姿を見せた。妙に不安そうな表情をしている。
「あの。私は手紙を差し上げた、花京院というものです。エメラルドのネックレスの件で」
「ああ!」
男はほっとした顔になった。
「先生がお待ちです。どうぞ」
足を踏み入れた家は、いかにもといった内装だった。古びた本が並ぶ本棚、天井から吊られた薬草の数々、不思議な色をした液体の入った瓶……部屋の奥の机で、秤に何やら粉のようなものを乗せていた老人が、じろりと花京院を睨んだ。
「はじめまして、錬金術士様。花京院と申します」
「わしが買ったエメラルドを取り戻したいそうじゃな」
「はい。金貨は持ってまいりました」
花京院がじゃらりと鳴る袋を取り出すと、先ほどの弟子がさっとやってきてそれを受け取った。
「残念ながら、あれはもうここにはない。一体のゴーレムに埋め込んで、旅に出してしまったんじゃ。じゃがまあ、あれはあんたの母親の形見というし、金貨もわしが支払った分より多いのじゃろう。これを持っていきなさい」
花京院は錬金術士から、古びた地図を手渡された。紫の茨のような模様が取り囲む地図は、北の山から南の海まで、大陸全体を描いたものだった。山の麓の村のあたりが、うっすら緑色に光っている。
「その地図は、例のゴーレムがいるところを示すようになっておる。ゴーレムが動けば、その光も動く。それを使って追いかけて、エメラルドを取り戻すといい」
花京院は錬金術士に丁寧に礼を言い、ゴーレムを追う旅を始めた。

ゴーレムはあちらへこちらへとよく動いた。花京院は馬を駆り、時には船に乗ってゴーレムを追いかけた。そしてとうとう、ゴーレムの緑が光る、小さな町へとたどり着いた。
花京院は酒場に赴き、このあたりでゴーレムを見なかったかと尋ねた。すると。
「あんた、あいつの知り合いかい?」
声を上げたのは、酒場の主人ではなく、酒をあおっていた客のほうだった。
「だったらさっさと連れて帰ってくれよ」
その男がそう言うと、隣で同じように赤ら顔をしていた男も「んだ」と言った。
「ゴーレムだってーのにあんな見た目だから、娘っこがみんな夢中になっちまっていけねえ」
花京院は首を傾げた。どんな見た目なのだろう。町の人達が、ゴーレムが滞在している宿を教えてくれたので、花京院は早速そこへ行くことにした。こんな小さな町では、プライバシーなどあってないようなもので、宿屋の主人もあっさりとゴーレムの泊まっている部屋を示してくれた。
花京院がその部屋に足を運ぶと、「ええ~~~」という声が聞こえてきた。それから扉が開いて、若い娘が二人、口を尖らせながら部屋から出てくる。
「今度は相手してよォ~~~」
娘たちは部屋の中に向かってそう言うと、ちらりと花京院を見て、そのまま帰っていってしまった。花京院は扉の前に立って深呼吸した。どうやらこの中にいるのは、よっぽどつれない男らしい。ノック。
「言っただろう、帰れ」
という声。それはとても魅力的な重低音で、花京院ですらくらりとするのを止められなかった。
「いえ、僕は村の娘ではありません。あなたにお願いがあって来ました」
花京院がそう伝えると、扉の向こうが静かになり、それから「入れ」という声が聞こえた。
「失礼します」
中に入ってみて、花京院は驚くと同時に納得した。確かに、こんな美しい男なら、人間でなくとも娘たちが群がるのは仕方がない。彼は岩や鉄ではなく、粘土のゴーレムだった。大柄な体はがっしりとして、顔は全てのパーツが絶妙に配置されていた。花京院は内心で、あの錬金術士の美的センスに拍手を送った。
しかも彼は、そのさらりとした粘土の体に、大小さまざまな宝石や貴金属のたぐいが、直接埋め込まれていた。耳たぶには赤い石、手の甲には青い石。首元には金や銀の装飾品がバランスよく嵌めこまれ、二の腕や手首はぐるりと回された金の輪がバングルのようになっている。額に埋め込まれた宝飾品は冠のようだ。そしてその目は。
花京院はため息をついた。そのため息には、いろんな意味が込められていた。ゴーレムの両の目は、美しいエメラルドでできていた。右のエメラルドは楕円形、左のものは長方形。花京院の母の形見のエメラルドは、長方形をしていた。ゴーレムの左の顔を飾っている、あれがそうだ。
「お前は誰だ? 俺に何の用だ?」
ゴーレムはエメラルドの瞳を輝かせて花京院を見すえた。
「僕の名は花京院といいます。叔父が売ってしまった母の形見のエメラルドを探して、錬金術士様にあなたのことを聞きました」
「……どっちだ」
「左です」
ゴーレムもため息をついた。
「まあ、座れ」
花京院は彼が指さした椅子に腰掛け、改めて彼を見つめた。本当に美しい。そしてその美しさは、彼の顔で光る緑の目あってこそのものだ。
「当然だが、俺は自分の体の材料の出処など知らずに生まれた」
「ええ」
「ジジイも性格は悪いが、盗品を使うようなタイプじゃあねえ」
「分かっています。僕の叔父が勝手に売り払ってしまっただけで、錬金術士様は正規のルートで手に入れられたのでしょう。彼が使ったであろう金貨より多めに返したら、あなたを辿れる地図をくださったのですが」
「ふむ」
ゴーレムは左目を指でこつりと叩いた。
「じゃあ俺は、これをお前に返さないといけないわけだ」
「いえ」
「ん?」
花京院は自分がそんなことを言ったのに、自分で驚いた。
「いえ、その……それはあなたの体の一部になってしまっているのでしょう」
「そうだが、こいつを繰り抜いても右目がある。不便にはなるがな」
「その、ええと……まさか目になっているなんて、思いもしませんでしたから」
「だがこれは、お前の母の形見なのだろう。対価も支払ったのだし」
「ええ、その通りです。ですがそれは、うちの宝石箱で眠っているより、あなたの目としてのほうが似合っている」
「ふむ…」
ゴーレムは顎に手を添えて思案の表情を見せた。
「では、こうしよう。俺の左目の所有権はお前にある。俺はこれを、ものを見ること以外に勝手に使わない。それで、俺がもし死んだり、そうでなくとも崩れてしまったりしたら、取り出して持って行ってくれ。だから」
「だから?」
「そうなったときに、他の誰かに取られてしまったらいけねえ」
「うん」
「だからな、俺はお前と一緒に行動することにするぜ」
「…ええッ!?」
ゴーレムは花京院に向かってニヤリと笑ってみせた。花京院は、いっそ凶悪なその笑みから、目が離せなかった。

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花京院は、自分の心臓がうるさく騒ぐのを感じた。それも当然だろう。なにせこれから、法皇として最上級のイベント、つまり国王の戴冠式が始まるのだ。王子が自分の前にひざまずき、花京院が彼を王と認める。そしてもう二度と、彼は神々以外の何者にもひざまずくことはなくなるのだ。
法皇に任命されて以来、若すぎるだの主信奉の神が気に入らないだの、事あるごとに花京院を邪険にしてきた神官たちに、自分を認めさせるチャンスだ。だがそれ以上に、花京院は王子――もう半日後には国王だが――にまみえることができるのを楽しみにしていた。
彼とはもう、十年前に会ったきりだ。城の中庭で、剣の稽古をしていた彼を思い出す。彼は高位の神官だった父親によって引き合わされた、花京院の手を握ってこう言った。
「おれはいつか王様になる。絶対なる。だからおまえも、絶対法皇様になれよ。それで、おれに王冠を乗せてくれ」
花京院はその言葉に強く頷いた。そして修道院での修行に本気になった。好きではない権力争いにも勝ち抜いて、とうとうトップの座を手に入れた。全ては今日、彼に冠を授けるためだ。きっと彼は、そんな約束など、覚えてすらいないだろうけれど。
王子、承太郎の言動は国中の注目の的だった。彼の噂は、花京院の耳にも自然と入ってきた。大きな鹿を仕留めたといったものから、どこぞの国の姫との縁談を蹴ったという話まで。貴族の屋敷で、彼の肖像画を見たことも、一度や二度ではない。ある程度は美化されているとはいえ、緑の瞳のその姿は本当に美しかった。

そうして戴冠式が始まった。花京院は大勢の人々の前で、主神の言葉を口にした。これはもう慣れたものだ。慣れないのは、きっといつまでも慣れることができないだろうことは、承太郎の存在だった。あんな、肖像画より美しいだなんて聞いてない。
承太郎は口の端を楽しそうに持ち上げて、花京院をじっと見ていた。そりゃあ王子と法皇なのだから、大きな行事に二人とも出席するということはちょくちょくあった。けれどそれはいつも、人々に囲まれた承太郎を遠目に見るイベントに過ぎなかった。
今、彼は花京院の目の前に膝を折り、挑戦的な燃える目で見上げてきている。花京院はつとめて落ち着いた声を出し、新しい国王と、彼が治める国を祝福した。それから花京院の元に王冠が運ばれてくる。厳かな雰囲気の中、花京院は承太郎の頭に君主の証を乗せた。
承太郎は立ち上がり、歓声を上げる人々に自分の姿を見せた。花京院は詰めていた息を吐いた。これで、この十年自分を動かしてきた原動力がなくなってしまった。あとは承太郎の治世を助けて責を果たすだけだ。早めに隠居してしまってもいいかもしれない。
花京院がそんなことを考えながら、迎賓用の控室で儀式用の服を脱いでいると、ノックをして従者がやってきた。
「国王様がお呼びです」
何の用だろうか? まさか先ほどの式で、何か失礼なことをしでかしてしまったのだろうか。花京院は王の部屋――執務室ではなく私室の一つだった――に行った。衛兵たちが中に声をかけ、彼は入室を許可された。
部屋の中にいたのは、国王ただ一人だった。彼は書き物をしていた手を止め、花京院を見据えた。
「…法皇、花京院典明、ただいま、」
「ああ、そういうのはいい」
承太郎は立ち上がり、花京院に近付くと、手を差し出した。彼のしたいことがよく理解できなかったものの、花京院は彼の前にひざまずき、その手をとって手の甲に唇を落とした。途端、承太郎は花京院の手を強く握りしめ、ぐいと体を引き寄せて、その口にキスをした。
「約束は果たしたぜ、花京院。俺達はそろそろ、次へ進んでもいいんじゃあねえか?」

(「法王」ではなく「法皇」を使いたかったのと神権分離とかの関係でキリスト教ではない感じで)

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「何を描いてるんだ?」
「うわ!」
承太郎に手元を覗きこまれて、花京院は飛び上がってスケッチブックを胸に押し当てた。
「じ、承太郎、シャワー終わったのなら声をかけてくれよ」
「かけたぜ。出たからお前も入れ、ってな。お前が何やら集中して聞いてなかったんだろ」
「う、ごめん。本当かい」
「嘘だぜ」
「まさかだろ承太郎」
「で、何を描いてたんだ?」
花京院は散々渋ったが、承太郎が見せねえと押し倒すとまで言って脅したので、とうとう観念してスケッチブックを晒した。そこにいたのは、承太郎だった。
「俺の絵か」
「うう、だから見せたくなかったんだ。下手だし」
「そんなことはねえだろ。こういうのなんて言うんだ? 抽象画?」
「抽象画まではいかないかな。ただキュビズムとかその辺に影響は受けてるかも…うわ、言ってて恥ずかしい」
「こっちのページはリアルな画風だな」
「ちょ、ちょちょっと他のページまで見ないでくれよ!」
「いいだろ別に。見事に俺ばっかりだな」
「だからよくないんだよ!」
花京院はスケッチブックを奪い返し、鞄に仕舞ってしまった。
「いろんな絵柄で描くんだな」
「ああ……なんていうか、デフォルメはリアルな絵が描けてからでないとうまく描けないものなんだ。だからまず、見たままを描く」
「一人の時に、俺のことを思い出して描いてたのか?」
「…………そうだよ。悪いか?」
「別に悪くはねえ。もったいないと思っただけだ」
「もったいない?」
承太郎は花京院の向かいに座って、ニヤリと笑った。
「言ってくれりゃモデルをしてやったのに」
「モデル……!?」
「ああ。見たままを描くんだろ。だったら被写体を直接見ながらのほうがいいんじゃあねえのか」
「ええ? だけど君」
「それとも、俺に見られたから俺のことはもう描きたくねえか?」
「まさか!」
 花京院は勢い良く立ち上がった。それから恥ずかしそうな顔をして、またベッドに座り直す。
「だったら決まりだな。いい肖像画を期待してるぜ、花京院画伯」

 

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シャワーの調子が悪いという電話を受け、私はあるマンションに足を運んだ。かなり大きなマンションだ。金持ち向けというやつだな。コンシェルジュに話を通す。
「こちらは○○水道会社の作業員です。△△号室のシャワーの不調の件でお伺いしました」
「ああ、お待ちしてました。どうぞ」
部屋は最上階だった。廊下にまでじゅうたんが敷き詰められている。土足で歩くのが申し訳ない気持ちになるくらいだ。たどり着いた部屋には、「空条」「花京院」と2つの表札が掲げられていた。同棲中の恋人だろうか。こんなところに住むくらいだから、よほどのお坊ちゃんとお嬢様の組み合わせに違いない。
インターホンを鳴らして水道会社のものだと告げると、ややあって扉が開いた。出てきたのは、柔和な雰囲気の青年だった。
「どうぞ。よろしくお願いします」
「失礼します」
案内された風呂場は、とても広かった。浴槽もでかいし、いい石を使っているのがすぐ分かる。もしかしなくても、あれはジャグジー機能じゃあないか? ついでに風呂場には大きな窓がついていて、外が眺められるようになっていた。
金持ちの風呂場にしばし圧倒されていると、青年が苦笑いをして話しかけてきた。
「こんな高級マンションに住むつもりはなかったんですが、じょ…ええと、同居人が、広い風呂場がいいって譲らなくて。そうしたら親戚の方が、資産運用だとかでこのマンションごと買い取ってしまって、住まないわけにもいかなくなってしまったんです」
「な、なるほど」
マンションを買い取るってどんなだ。怖い。あまりプライベートなことに首を突っ込むと怖いことになりそうなので、私はてきぱきと作業をして、さっさとお宅から退散することにした。
代金は直接いただかないように、と言われていたので、帽子を脱いで挨拶して、私は帰ろうとエレベータールームへ向かった。最上階までやってきたエレベーターには、男性が一人乗っていた。……ものすごい美形だ。見た目がいいだけではない。その堂々とした態度に、私はまた、金持ちって怖いと思った。
静かに扉が閉まるエレベーターの中で、私は確かに聞いた。あの青年の声と、もう一つの声が、
「今のは誰だ?」
「シャワーを直してもらったんだよ、承太郎」
と言い合うのを。

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最近よく、エレベーターで乗り合わせる人がいる。僕が昼食を終えて、1階から自分のオフィスのある6階に向かう途中、3階でエレベーターが止まる。そうして彼が入ってくるのだ。
彼はとても大柄で、入ってこられるとエレベーターが狭く感じられるほどだ。それから、彼はとても見目麗しい。びっくりするくらいだ。凛々しい眉も高い鼻も素晴らしいが、僕が特に好きなのは、そのぽってりした唇だ。後ろに撫で付けられた髪がまたセクシーで、女性には不自由してないだろうなあと下世話なことを考えてしまう。
それに、彼はいつも違うスーツを着ている。僕のように同じものを使い回しにはしていない。ちなみに僕は、薄いグレーのやつが好きだ。見れた日はラッキーデーということにしている。きざなデザインのスーツだが、彼が着ると厭味ったらしくなく格好いい。
僕は6階で下りてしまうが、彼はもっと上まで行くようだ。どの階かは分からないが。フロアマップによると、3階は会議室が集まっているところらしい。昼イチでよく会議をしているということか。まあ、僕と彼ではちょくちょくエレベーターに乗り合わせるだけで、他に接点もないので、こっそり覗き見て目の保養にしているだけだった。
そんなある日、いつものようにちらりと彼の顔を窺った僕は、つい「ちょ、ちょちょちょっと」と変な声を上げてしまった。
「何してるんですか!」
「あ?」
彼は肉厚の唇を、自分で触っていた。それはまあいい。その唇が少々ひび割れてしまっているのも、最近乾燥しているものだから仕方ないだろう。だが、その唇の割れてしまったところを、気になるのであろうが指で掻いて押し広げるのは許せない。血まで滲んできている。
「やめてください! ひどくなるだけですよ」
「………唇のことか?」
「あ、はい」
2メートルくらいありそうな彼に胡散臭そうな目で見下されて、僕は少々やっちゃった感を感じていた。だが、僕よりも彼の唇のほうが大事である。
「そんな、引っ掻いたりめくったりしたら駄目ですよ」
「ここの会議室、暖房が強すぎるんだよ」
「そうなんですか。だったらなおのこと、ガードしないと」
「ガード?」
僕はポケットからリップクリームを取り出した。かくいう僕も唇はよく乾燥するタイプなので、この季節は常に持ち歩いている。
「これ、使ってください。男性用のものなので、色はつかないので大丈夫です」
彼は訝しげに僕を見た。あ、これもしかして、追加でやっちゃったか? 男の使いかけのリップクリームとか、駄目な人かもしれない。そうでなくとも名前も知らない相手なのに。エレベーターはとっくに6階を通りすぎている。さっさと降りるべきな気がしてきた。
「ええと、おせっかいでしたね。すみません」
「それ、借りていいのか?」
「え? あ、どうぞどうぞ」
彼は僕の手からスティックを受け取り、ちょっと戸惑った様子でキャップを外してくるくる回し、唇に塗った。
「ガサガサしなくなった気がするぜ」
「よかった。あの、嫌でなければ、それ差し上げますよ。使いきる前にご自分で次のを探してください」
「だが、これはお前のものだろう?」
「実はお徳用パックで買ったので、家にまだあるんです。よかったらどうぞ」
彼はしばし僕を見つめると、
「そうだな。人に貸して口を付けられたのを返されても困るな」
と言った。
「いえ! そういうわけでは……その、せっかくの…エヘン…唇が割れてるのを見ると、僕のほうが痛くなってくるので。あなたが嫌なら返してもらっても」
「いや、そこまで言うならもらっておくぜ。ありがとな」
彼はそう言って、今はつやつやしている唇を持ち上げて笑った。僕としては、その眩しいまでの笑顔に完全にノックアウトされてしまって、彼の「間接キスか…」という呟きを聞き逃した。エレベーターは最上階に到着していた。

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からからに乾いている。承太郎が降り立った土地は、地面がひび割れて茶色い草がしなびて這いつくばっていた。体の表面から、水分が空気に奪われていくのが分かる。馬車が遠くの地平線に消えていくのを見送って、承太郎は開拓地の町へと足を踏み入れた。
町の人々は、承太郎を遠慮無くジロジロ睨めつけた。この町に新しい住人がやってくるなんて、もう何年もなかったことだ。承太郎はとりあえず町長に挨拶をすることにした。
町長の家は分かりやすかった。町で一番大きくて、装飾が豪華で、ペンキが剥がれていない家だ。承太郎が戸を叩くと、召使らしき男が姿を見せた。思い切り不審そうな顔をしている。だが承太郎が手帳を見せれば、すぐに媚びへつらうような笑顔になった。
「ご主人様! お役人様が来ましたよ!」
承太郎が案内されたのは、この乾燥した土地に似つかわしくないきらびやかな部屋だった。酒や茶ではなく、水が振る舞われる。ここではそれが、一番の贅沢品なのだろう。やがて姿を現した町長は、都会の人間のようによく太っていた。
「これはこれは。遠路はるばるようこそおいでくださいました。私が町長です」
町長は水差しからグラスになみなみ水を注ぎ、ガブガブ飲みながら話し始めた。確かに最近はふるいませんが、新しい金脈がすぐに見つかるでしょう。この辺りは昔から金がよく出ると現地人の間でも評判ですからな。今はこの町の東のほうの山を掘っていますが、金脈が続いていそうな西の荒れ地も攻めてみるつもりです。
承太郎は表情を変えずに、そうか、とだけ言っていた。現地人が住んでいる気配がないとか、西のほうはまだまったく手が入っていない様子だとか、そんなことを口には出さない。
「とにかく、次の馬車が来るまでの一週間、この町に滞在させてもらう。それで判断する」
「どうぞどうぞ。もちろんその間、不自由はさせませんよ。お部屋も用意してございます」
「この家にか?」
「ええ、もちろん」
「他に泊まれるところはないのか?」
承太郎がそう言うと、町長は困惑した顔を見せた。
「他…ですか?」
「ああ。この町は、この家以外よそ者に見せられる場所はないのか?」
「いえ、まさか! そうだ、保安官の家はどうでしょう。あそこなら、何か間違いがおこるということもないでしょう。おい!」
町長が呼ばうと、先ほどの召使が顔を出した。命じられて、保安官の家に走って行く。
「ああ、それでは、これは宿泊代です。お持ちになってくださ」
「いらん」
承太郎があっさり賄賂を断ったので、町長の札束を持った手は行き場をなくしてしまった。
「そ、そうおっしゃらず」
「調査にあたっての経費は出ている。余分はいらん。それより誰か来たようだぜ。保安官か?」
やってきたのは、星のバッジをつけた痩せぎすの男だった。日に焼かれて、髪が赤くなってしまっている。優男に見えるが、その実肉体は鍛えられているようだ。着痩せするたちなのかもしれない。彼は困ったように承太郎を見た。
「お役人様が僕の家に泊まりたいとおっしゃってるそうで…」
「ああ。この家に泊まったら、一週間外に出られなさそうだからな。迷惑でなければ泊めて欲しい」
保安官は眉を下げて困っていたが、町長に何やら目配せされて、慌てたように「分かりました」と言った。
「大したお構いもできませんが」
「ああ、問題ない」
そこで承太郎は、ヘコヘコしている町長を置き去りにして、保安官の家に向かった。
「完全に、町長のいいように使われているようだが?」
「……僕だって、乾いて死にたくありませんからね。ひどい殺人事件でも起きない限りは、彼に逆らう気にはなれませんよ。どうせみんな、事件を起こすような気力は残っていませんし」
「というと?」
「ご覧の通りですよ。この町には、もう何もないんです。金が出ていたのは、もう数年前の話です。賢い者はとっとと引き上げて、そうでない者はここで毎日、夢を見ながら石を掘ってるんです。町長のためにね」
「彼は?」
「水を握ってるんですよ。だからどうしようもない」
承太郎は保安官の長く伸びた髪を見た。一応切りそろえてはあるようだが、ざっくばらんだ。自分で切っているのかもしれない。前髪が一束長く、髪にかかっている。
「聞けば聞くほど、俺が上に伝えることはひとつしかないという気になるな」
「そうしてくださると、僕らはむしろ助かりますよ。…どうぞ、この部屋を自由に使ってください」
そう言われた部屋には、粗末なベッドに小さな机と椅子、それから表面が剥げた棚、それだけしか見当たらなかった。机の上に古い冒険小説が置いてある。
「ここはお前の私室では?」
「そうですが、ここ以外にベッドがないのです」
「それではお前はどこで寝るんだ?」
「まあ、そのへんで…カーテンにでも包まるので気にしないでください」
「気にする。他にないならあのベッドで俺と一緒に寝ろ」
「え、ええ? 窮屈でしょう」
「それは気にしない」
承太郎が一歩も譲らないので、保安官――名は花京院といった――はとうとう観念して、同じベッドで眠ることにした。夜、ぎゅうぎゅうとほとんど抱き合うようにして、承太郎はふと疑問を口にした。
「お前、この町がなくなったら、どうするんだ?」
「そうですねえ。今更都会で一旗上げるのも無理ですし、故郷にでも帰りますかね。こう見えて体力には自信があるんです。畑でもやりますよ」
「そうか」
荒野の夜は寒い。承太郎は隣の体温を心地よく感じながら、行くところがないのなら俺のところに来ればいい、などと思っていた。

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「花京院くん、こっち回して!」
「はい!」
花京院は小型のカメラを担いで船内を走り回った。小型と言っても、家庭用のものと比べれば十分大きい。
花京院はA局のカメラマンである。今日はある港に、海の生物に関するドキュメント番組のロケに来ていた。テレビ映えしない船内の映像は、最終的に使われることはあまりないのだが、十分大事な資料だ。今回インタビューをする海洋冒険家の先生は、有名な大学で招待講演をするような学者様だとかで、硬派なドキュメンタリーになる予定だった。インタビュアーも熱心に、船員や助手に話を聞いている。
「……それで、その経過観察で、今回船を出すのです」
「なるほど」
船内でインタビューをしていた彼らの元に、甲板のほうから一人船員が降りてきた。
「あ、こんなところにいましたか。空条博士が到着してますよ」
「あら、ありがとうございます。花京院くん、行くよ」
「はい」
花京院がカメラを持ち上げると、船員の一人が
「兄ちゃん、細っこいのに結構力持ちじゃあねえか」
と声をかけてきた。
「もうちっと肉をつければ、船にも乗れるぞ」
「ありがとうございます。これでも鍛えてるんですが、なかなか筋肉がつかなくて」
「か、花京院くん、ちょっと! 早く!」
「あ、すみません。呼んでるので失礼しますね」
冷静なことで知られているインタビュアーが珍しく声を荒らげているので、花京院は急いで甲板に上がった。そして仰天した。花京院は職業柄、美人の女優や二枚目の歌手などは、数えきれないくらい見てきている。だが、船の上に立つこの男は。そんな芸能人たちが、みんなくすんで見えなくなってしまうほどの造形をしていた。なんだこれは。芸術品か。
インタビュアーが、用意してきた言葉を忘れてパクパクしている。花京院もしばし固まってしまった。ここは長距離航海の準備をしている船の上であり、ファッションショーの舞台ではなかったはずだ。男はそんな反応には慣れているのか、平然として、
「サメの研究でインタビューに来たのではなかったのか?」
と聞いてきた。
「あ! し、失礼しました。空条博士ですね。私、A局から来ました、こういうものです」
インタビュアーが名刺を取り出す。花京院も背筋を伸ばして、海洋冒険家の名刺を受け取った。すごい、全部英語で書いてある。花京院は腹に力を込めてカメラを回し、彼がもっともハンサムに映るアングルを探った。どのアングルでも美形にしか映らなくて、更に仰天することになったのだが。
「……以上だ」
「ありがとうございます! 興味深いお話でした」
インタビュアーが番組の今後について説明をしている間、空条博士はなぜだかずっと、花京院のほうを見ていた。
「……ですので、また3ヶ月後にお伺いすることになります」
「ああ。そんときにはぜひ、またあんたらに来てもらいたいもんだな」
「本当ですか!」
「ああ。あんたと…そのカメラマンにな」
博士の目が妙に熱いような気がして、花京院は居心地の悪さを感じながらカメラを下ろした。

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承太郎には目下のところ、大変な悩み事がある。それは何かというと。実は彼には、恋しちゃってる相手がいるのだが、その相手というのが非常にシャイで、アプローチをかけようと近付くだけで逃げられるのだ。尾びれを力いっぱい動かして泳いでいっても、向こうも手足のヒレを動かして泳いで逃げる。承太郎のほうが泳ぐのが速いので、やがて追い付きはするのだが、そうすると岩場に閉じこもってしまって、甲羅を向けてくるだけになる。
「花京院、顔を見せてくれよ」
と声をかけても、引っ込めた顔を出してくれない。
「俺のことが嫌いなのか?」
「別に、君個人が嫌いなわけじゃあないさ。だけど君、サメだろう」
「そうだが、それの何が問題なんだ?」
「……僕はウミガメだぞ」
「知ってるぜ。アカウミガメだろ?」
「そこまで知ってて、僕が君を避ける理由が分からないのか?」
「分からん」
そう言うと、花京院は呆れた顔をして泳いでいってしまう。承太郎は首を傾げながらそのあとを追うのだった。

承太郎と花京院が暮らしている大型水槽の前には、毎日大勢の客がやってくる。承太郎はとびきり体が大きくてインパクトのあるサメだから、子どもたちに指をさされることもよくあることだった。
土曜日と日曜日には、水族館のスタッフがマイクを持って、お客たちの質問に答えながら、中の魚たちについて解説をする。承太郎は興味がなくていつも無視していたのだが、人間の集団から「あのサメたちは」という声が聞こえてきたので、水槽の前のほうに泳いでいった。花京院にとって、俺がサメであることに不都合があるようだから、何か有益な話をしているようだったら聞いてやろうと思ったのだ。
声を上げたのは、写真が撮れるゲーム機を手にした子供だった。承太郎の目からは、少年なのか少女なのかはちょっとよく分からない。
「サメって肉食の魚ですよね? この水槽の中の他の魚とか、あと、あそこのカメとか、食べたりしないんですか?」
その言葉は、承太郎にとって衝撃だった。食べる? 俺が? 花京院を?
「いい質問ですね。あそこにいるサメはシロワニといって、顔は恐いのですが、実はおとなしい種類なんです。それにサメは新陳代謝が低いので、十分な食べ物があれば、他の魚を襲うことはめったにありません。全くないというわけではありませんが、自然界ではいつものことです」
スタッフの声は、承太郎にはほとんど届いていなかった。食べるだって? 俺が花京院を食べるだなんてことが、はたからはよくありそうなことに見えるのか? それはとてもショックなことだったが、同時にすとんと承太郎の心の中に落ちてきた。花京院を見て感じる衝動は、あれはきっと、恋わずらいだけではなかったのだ。
けれど、と承太郎は思った。そうだとしても、自分は花京院のくるくる動く目や、ぷくぷく泡立つ声、優雅に泳ぐヒレが好きなのだから。きっと彼を口に入れてみたのなら、ほろほろと甘いのだろう。それでも承太郎は、食べる気はないから恐れなくてもいいと伝えるために、やっぱり花京院を追いかけるのだった。

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承太郎が自分を襲った刺客を返り討ちにし、DIOについて聞き出そうと肩に担いで家に連れ帰った時、母親ホリィは目を丸くして驚いた。
「まあ! まあまあ承太郎! やったわね!」
「? おう。ジジィとアヴドゥルを呼んでくれ」
「もちろんよ! 顔を見せないとネ! 今日はお赤飯ね!」
「?」
とりあえずその男、花京院を寝かせた客間にやってきたアヴドゥルは、
「DIOの刺客か」
と苦い顔をしたのだが、ジョセフはなぜか顔を輝かせた。
「やったのう! 承太郎!」
「……?」
それから彼がDIOに洗脳されていることが判明し、すったもんだの末承太郎がそいつを解呪したら妙になつかれて、更に一緒にエジプトまで行くことになってしまった。
DIOのせいで体調を崩して布団に入ったホリィは、気丈にも笑顔を見せて、
「ママのことは心配しないで。承太郎、頑張るのよ! パパ、よろしくね」
と言った。承太郎はDIOを倒す旅についてのことだと思ったのだが、ジョセフは
「任せておけ! わしも孫が増えたら嬉しいしの!」
などと言っていた。何の話かよく分からない。
それから飛行機に乗り、それが落ち、船に乗り、それが沈み、一行は陸路を取ることにした。野宿の日も多かったが、そこそこの大きさの街ではホテルを探した。ジョセフはいつも、「年も近いし話が弾むじゃろ!」と言って承太郎と花京院を同室にした。
花京院のほうから「僕は承太郎と同室で」などと言われた日には、ジョセフはなぜか承太郎をうりうりと小突いた。アヴドゥルも何やらアルカイックスマイルを見せている。途中参加のポルナレフでさえ、ニヤニヤしながら「おい、やったな」とか言ってくる。だから何なんだ。
だがまあ実際、花京院とは話が弾んだ。今日見た異国の地の面白いものから、好きなアーティスト、趣味、不味かった食べ物などなど。
「だけど君、あの変な味付けの肉、ガツガツ食べてたじゃあないか?」
「代謝が良いもんでな。お前もちゃんと食えよ。ただでさえ昼間動きまわってんだから」
「ちゃんと食べてますよ。君が食べ過ぎなんだ」
「もっと食え。細すぎんだろ」
承太郎は花京院の柳腰に腕を回した。うお、本当に細い。
「こ、こら触るなよ。くすぐったいだろ。君だって……君は…君……羨む気にもならないな」
「何がだよ」
「分かるだろ」
「分かんねえな。はっきり言えよ」
花京院はしばらく目を泳がせていたが、やがてギブアップして息を吐いた。
「君が、あんまりカッコいいってだけの話だよ。聞き飽きてるだろ」
確かに承太郎にとって、容姿を褒められるのは常のことだった。正直鬱陶しい部類にすら入る。だが花京院からそういうことを言われるのは、不思議と悪い気持ちはしなかった。
「お前だって美人だろ」
「それ褒めてるのか? 嫌味か?」
花京院は苦々しい顔でそう言ったあと、「ブハッ」と吹き出した。
「まさか君と、こんな軽口叩けるなんてな。平和な日本で同じクラスだったら、友達にはなってなかったんじゃあないかな」
「俺はそうは思わないぜ」
承太郎は真剣な顔になって花京院を見た。花京院が気まずさを感じて目をそらしたほどだ。
「もしそうだったとしても、俺はお前とつるんでたと思うぜ」
「そう…か……嬉しいよ」
花京院はしばらくモゴモゴ言ったあと、はにかんだような顔で承太郎を見上げた。
「もし、全部終わったら……僕と一緒に学校に通ってくれないか? 僕、友達いなかったんだ。だから…」
「いいぜ」
承太郎は力強く頷いた。
「俺も、てめーと学校生活を送りてえ」

その約束が叶えられたのは、ゆうに一年以上が過ぎてからだった。アヴドゥルは両手を、イギーは片足を失ったものの、彼らは誰一人欠けることなく諸悪の根源との戦いから生還した。
ダメージが一番大きかったのは花京院だった。彼はDIOによって腹をぶち抜かれ、一年近くも生死の境をさまよっていた。承太郎は足繁く見舞いに通い、そのせいで留年することになったのは一切気にしなかった。
花京院がはっきりとした目で承太郎を見て、
「勝ったんだな、よかった」
と言った時、承太郎は彼の手を強く握りしめて涙した。
長いリハビリを経て、学校に通えるまでに回復した花京院は、新調した学ランに身を包んで空条家の門の前に立っていた。外まで出てきたホリィにさんざん構われてから、承太郎と一緒に登校する。後ろから、「頑張ってネ! 承太郎!」という声が聞こえた。何をだ。
承太郎が花京院を伴って学校にゆき、「花京院くんの席は」という教師の声に「俺の隣にしろ」と返し、昼食も一緒にとり、更に下校時刻に「帰るぜ、花京院」「うん」と言い合って教室を出て行くものだから、花京院のことは一瞬で学校中の噂になった。
JOJOが不登校の間に、何かあったのは間違いない。JOJOと喧嘩をして引き分けただとか、JOJOの弱みを握っているのだといったものから、実は生き別れの兄弟なのだという突飛な話まで流れていた。
一体どういう仲なのか、直接聞くことのできる男子はいなかった。聞けたのは、怖いもの知らずの女子だった。
「ねえJOJO、花京院くんとはどういう仲なの?」
承太郎は花京院を見つめた。
「こいつは俺の」
花京院は照れたような顔をしている。なんというか、たいへんかわいい。
「嫁だぜ」

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「承太郎、お嫁さんよ!」
そう言って連れて来られたやつは、確かに四つの足や太い尻尾が俺に似てはいたが、なんだか体中が柔らかく滑っていて、色も違った。そいつは俺のすみかの中、水がたくさんあるところに入り込んだ。
「よう。俺の名前は承太郎。お前は?」
「花京院だ」
そいつは名乗りはしたものの、鋭い目つきで俺を睨んだ。警戒心の強いやつだ。嫌いじゃあない。
俺としては、そいつの黒っぽい体や赤い腹、顔に一筋走るこれも同じ赤い模様なんかもなかなか気に入ったので、仲良くしたいと思った。そこでそいつに心を許してもらうため、話を振ることにした。
「なあ花京院、お前はどこから来たんだ?」
「………」
「そこは居心地がいいか? 水が冷たいとかねえか?」
「………」
「好きな色は?」
「………」
「…俺のことが嫌いなのか?」
「君は馬鹿か? 別に、君のことが嫌いなんじゃあないさ。初めて会ったやつとペラペラ喋るもんでもないだろう。危険だし」
「俺はお前に危害を加えるつもりはねえぜ」
「どうだかね」
そう言うと花京院は、これ以上話をするつもりがないことを示すためか、水の深いところへ潜っていってしまった。嫁だというのに残念だ。だが、時間はいくらでもある。これから親密になっていけばいい。俺はとりあえず、昼寝をすることにした。

目を覚ますと、花京院がぽかんとした顔でこちらを見ていた。
「どうした?」
「君…君、寝てたのか? そんなところで!?」
「それがどうした?」
「どうした、じゃあないよ。岩にも地面にも隠れないなんて…よくそれで今まで死ななかったな」
「? よく分からんが、俺はいつもここで寝てるぜ」
そう言うと花京院はブツブツ言いながら首を振った。とそこへ、ホリィが近付いてきた。ホリィというのは俺たちの飼い主のことだ。花京院はそれを目に留めると、ぱっと身を翻して水の中に潜ってしまった。
水槽の蓋が開く。食事の時間だ。俺はホリィが俺の皿に食い物を置くのを見ていた。今はそこまで腹が減っていないから、後でゆっくり食べよう。それからホリィは、花京院のひそんでいる水の中へ、彼の食事だろう俺は見たことがないものを落とした。すると、すごい勢いで花京院が水面まで上がってきて、あっという間にそいつらを全部口の中に入れ、また目にも留まらぬ速さで水底に行ってしまった。
蓋が閉じられ、ホリィの姿が全く見えなくなってから、ようやく花京院は姿を見せた。
「…君、食べないのか?」
「なんだ、そんなに腹が減ってたのか。俺の飯も少しやろうか?」
「ハァ!?」
花京院の驚いた顔に、俺のほうが少々驚いてしまった。何かおかしなことを言っただろうか。
「君、頭がおかしいのか? おかしいんだな? どうやって生きてるんだ?」
「どうやってと言われても……お前がさっきガッツいてたから、そんなに腹が減ってるならと」
「別にたいして空腹じゃあないさ。だけど食べられる時に食べるのは世界の常識だろ」
「そうなのか?」
花京院は黒い目をひんむいている。丸い目がかわいい。それから俺に、
「君とは一生分かり合えそうもないよ」
と言って、また水の中へ隠れてしまった。
そんなことを言われて諦める俺ではない。こいつの見た目も気に入ったが、物怖じしない態度やはっきりした喋り方、それによく動く目、どれもとても好ましい。こんな嫁が来てくれて嬉しいぜ。今日は断られたが、明日になったら気が変わるかもしれねえ。食いもん渡してアタックするぜ。

そうして俺は、ホリィが「あらあら熱心ね、首ったけね!」と言うほどに熱烈なアプローチをかけた。初めは警戒心を露わにしていた花京院も(あとで聞いたところによると、俺に食われる可能性を考えていたそうだ。ンな馬鹿な)、そのうち呆れ顔で、それでも俺の元へ来るようになった。
「君、水の中で暮らす種類じゃあないんだろ。そんなにいつも水に入って、ふやけないのか?」
「お前のそばにいられるんなら、そのくらい軽いもんだぜ」
「…君な……君はどうして、そんなに僕のことを気にかけるんだ? ただの同居人だろう?」
「何を言ってる? お前は俺の嫁なんだから当然だろ?」
「………嫁ェ!?」
「おう。ホリィがそう言ってお前を連れてきたんだ」
「き、君こそ何を言ってるんだ!? 僕は初耳だぞ!」
「そうだったのか。まあそんなこたァどうでもいい。俺はお前が気に入ってるし、お前は俺の嫁でいいだろ」
「よ、嫁って君…女の子だったのか?」
「あ? 俺は男だぜ」
「僕だって男だよ!」
叫んで、花京院は水の中に姿を消した。あいつ男だったのか。まあいいか、かわいいし。
そんなことを考えて、俺は顔を掻いた。そろそろ脱皮が近いので、体中あちこちから皮が剥がれてきているのだ。まあ岩にでも体をこすりつけていれば、そのうち全部剥がれるだろう。俺がそうやって、目にかかっていた皮の一部を手で剥がしていると、そっと花京院が水面へ近付いてきた。
「どうした?」
「……嫁っていうのは納得できないけど……。君、最近のそれ、病気なのか?」
「それ? どれだ?」
「その、体が剥がれているやつ。何か悪い病気なら…」
「これは病気じゃあねえぜ」
心配してくれるこいつがかわいくて、俺は鼻先を水の中に入れて、花京院にこつんと当てた。
「これは脱皮だ。体の表面の古い皮が取れていってるだけだぜ。新しい皮膚ができてるから問題はねえ。心配かけたな。さすが俺の嫁だぜ」
「だから! …もう!」
花京院は照れてまた潜ってしまったが、やっぱり水面に戻ってきて、
「僕の脱皮とはだいぶ違うものだから…病気じゃあなくて、よかった」
と言った。それでもう、俺としては、一刻も早くこいつと卵を作らねばと思ったわけだ。

(トカゲ×イモリ)

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花京院を風呂へ入れるのは、少々骨が折れる。
彼はあの旅から帰ってきてから、がくりと体力が減っていた。それでも承太郎が花京院を求めてしまうのは、それは仕方のないことだと思って欲しい。理屈でないのだ。
そういうわけで、『愛を確かめ』合ったあと、力なく眠る花京院の体を清めるのは、承太郎の仕事だった。濡れタオルで済ませる時もあるが、風呂に入れるほうが実は楽だし、彼の体もより綺麗になる。そういったわけで、最近はもっぱら湯船を使っていた。
まず、湯を溜めながらシーツでひと通り体を拭く。どうせ明日洗濯するのだから問題はない。たいていの場合は全裸だが、服を着たままであったら、ここで全て脱がしておく。
そうしている間に、浅く設定しておいた風呂の湯が溜まるから、彼を抱き上げて浴室へと向かう。身長の割りに細い体を浴槽に横たえて、ちゃぷちゃぷ音を立てながら湯をかけ、汚れを落とす。
それから腰の下に腕を入れて下半身を少し浮かせ、足の間の奥まったところに指を伸ばす。そうして中を全部掻き出してしまったら、一度湯を抜いて、今度はシャワーをかけながら柔らかいスポンジで軽く体を洗う。石鹸は付けない。
この辺りで、花京院の目が開くことがある。承太郎が「気にせず寝ていろ」と言うと、「ありがとう」とまた目を閉じるのだが。
ゆっくり洗うものだから、彼の指先はふやけてしまうのだが、急いではいけない。そうしてすっかり綺麗になったらまた抱き上げてベッドまで運び、てきぱきと拭いて湯冷めしないよう手早くパジャマを着せる。それから同じベッドに入り、自分も眠りにつく。
一切抵抗しない、力の抜けた彼の体を撫でて、ふと思いつく一つの想像に首を振った。

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「とりっくおあとりーと!」
かわいらしい声が響き、空条ホリィは「かわいいお化けさんたちね!」と言いながら、仮装した子どもたちの持つ袋や箱の中に、用意しておいたお菓子を入れてやった。ホリィの実家、すなわちアメリカでは子どもたちは夜出歩くものだったが、ここは日本であるので、町内会の大人の引率付きで決まった家を昼に回る形式となっていた。
「承太郎も行けばよかったのに」
「……行かない」
ホリィは息子、承太郎を見ながら小さくため息を吐いた。親思いの優しい、いい子なのだが、自分の血が強いのか体が大きいのだ。まだ小学4年生だというのに、中学生、下手をしたら高校生くらいに見えてしまう。ハロウィンの仮装などして、まだあどけない顔を隠してしまえば、それこそ場違いに見られてしまうだろう。
「じゃあ承太郎、ママと一緒にパンプキンクッキーを作りましょ! お手伝いしてくれるかしら?」
「…分かった」
ホリィがキッチンで材料を揃えていると、玄関先のチャイムが鳴った。
「はあ~い!」
ホリィが表に顔を出せば、そこにいたのはシーツを被った小さなお化けだった。彼は蚊の鳴くような声で、
「トリック・オア・トリート…」
と言った。ホリィは微笑みながら、差し出された布の袋にビスケットやマドレーヌを入れた。
「お友達とはぐれたの? 大人の人は?」
「……ぼく…あんまりみんなとなかよくないから……」
ホリィは彼に笑いかけた。
「だったらちょうどよかったわ! うちにもあなたみたいな子がいるの。これからかぼちゃのクッキーを作るんだけど、あなたも手伝ってくれないかしら?」
「えっ……?」
その子はしどろもどろになって戸惑っていたが、ホリィが「お願い、一人じゃ大変なの。力を貸してくれると助かるわ」と言うものだから、最後には「わかりました」と頷いた。
小さなお化けはホリィについて家に上がり、キョロキョロしながら一緒にキッチンへと向かった。彼のシーツは少々古びていて、だからこそ目や腕のところに穴を開けるのを許されたのだろう。ホリィが少年を伴ってキッチンに入ると、承太郎が驚いた顔をした。
「承太郎、さっきママとお友達になったの。ええと、お名前は?」
「花京院です。花京院典明」
「典明くんよ! こっちは息子の承太郎。仲良くしてあげてね」
シーツの少年はビクビクしていたが、承太郎が「よろしく」と言って差し伸べた手を、それでも握り返した。
花京院はクッキーを作る間も、ずっとシーツを脱がなかった。承太郎が「ぬげよ」と言っても、「だって、ぼく、おばけだから」とそれを拒んだ。ホリィとしても少年の顔が見てみたくはあったのだが、ちょうど小麦粉やもろもろをガードするエプロンになってくれているので、強くは言わなかった。
子どもたちが型を抜いたクッキーを焼いている間、ホリィは彼らを応接間でふたりきりにしておいた。承太郎はこのお客に興味津々で、矢継ぎ早に質問をした。
「なん年生だ?」
「10さい」
「おれとおんなじだな! かぼちゃ好きなのか?」
「うん…でもチェリーのほうがすき」
「母さんのチェリーパイうまいんだぜ。こんど食べにこいよ。おまえ何クラス?」
「…学校は、いってない」
「そうなのか?」
「へん?」
「いや、べつにいいと思う。なあ、シーツぬげよ」
「……だめ」
そうこうしているうちにクッキーが焼き上がり、良い匂いをさせた皿を手に、ホリィがやってきた。
「できたわよン! みんなでいただきましょう。ルン!」
花京院の顔はシーツに隠れて見えなかったが、それでもその目が輝いているのに、気付かないホリィではなかった。
ホリィはコーヒーを、承太郎と花京院はホットミルクを飲みながら、三人で食べる出来立てのクッキーの味は格別だった。承太郎は、シーツの下に消えていくクッキーを見ながら、やっぱり顔が見てみたい、と思っていた。
皿がすっかり綺麗になり、花京院のおみやげに追加でクッキーを持たせる頃には、空はオレンジ色になっていた。承太郎は「もう帰るのか?」と渋っていたが、ホリィが「遅くなると典明くんのパパやママが心配するでしょう?」とたしなめた。花京院も名残惜しそうにしてはいたものの、やっぱり玄関に向かった。門の先で花京院はぺこりと頭を下げ、
「ありがとうございました。おいしかったです」
と言った。ホリィもニコニコして、
「また遊びに来てね!」
と声をかけた。花京院はもう一度お辞儀をして、それから背を向けて帰っていった。彼が角を曲がって、その姿が見えなくなってから、ホリィは家の中に入っていった。承太郎もそのあとに続こうとして、意を決したように振り返り、走りだした。
花京院はまだそこにいた。承太郎は手を伸ばし、彼のシーツを思い切りめくった。その下にあったのは。少年の驚いた顔、ふんわりと柔らかそうな髪に、少し切れ長の目、大きな口。それから短パンから覗く膝小僧。そのどれもがうっすらと透け、向こうの景色が見えていた。『お化けだからシーツを脱げない』というのは、本当のことだったのだ。
花京院の目は、一度大きく見開かれたあと、くしゃりと歪んで潤み始めた。本物のお化けであることを知られたからには、もう二度と遊びに行けないだろう。だのに承太郎は、それを見ても表情一つ変えず、あまつさえ花京院の唇に指を押し付けてふにふにし、ちゃんと触れることを確かめてから、自分の唇を重ねた。
「え」
「またうちに来いよ」
「え?」
「ぜったい来いよ! やくそくだぞ!」
「う、うん」
その返事を聞いて満足した承太郎は、もう一度花京院にキスをして、それからまた走って帰っていった。花京院はシーツを被り直すのも忘れて、ぽかんと立ちすくんでいた。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

承太郎はフリフリと揺れる紐を見ていた。今日は花京院のほうが夕食の担当である。承太郎は自分の担当の風呂掃除を終えて、まだ期限に余裕のあるレポートをゆっくり進めていた。ちらりとキッチンに目をやれば、忙しそうに働いている花京院のエプロンの紐が揺れるのが見える。
モスグリーンが上品なそれは、大学に入ったら二人で一緒に暮らすと話した折に、承太郎の母親ホリィから贈られたものだ。ご丁寧にモスグリーンのにはチェリー、お揃いの紺色のには星の刺繍まで入っている。そこまでされたものを突き返すわけにもいかず、花京院はお揃いなことを恥ずかしがりながらも、このエプロンを使っていた。実は気に入っているのだということは、承太郎だって知っている。
「承太郎、できたよ。運んでくれ」
「おう」
ダイニングのテーブルの上に皿を並べて食事にする。実は、ルームシェアを始めるまで、二人とも料理などしたことはなかった。そんな二人のために、花京院の母親がくれたのが、今まさにキッチンで開かれているレシピブックである。レシピといってもそうご大層なものではなく、初心者の二人のための、「簡単! 材料3つでできる今日のおかず」みたいなやつである。
二人はこの同じ本を使っていたが、同じ料理が同じ味付けになることはあまりない。というのは、実は凝り性の承太郎が付箋を付けたページを開いて計量カップを取り出し、キッチンタイマーまで駆使して調理するのとは対称に、花京院はぱっと開いたページを見て分量をチェックしたら、あとは目分量と気分で調味料をぶっこみ料理を作るからだ。だから、その日によって微妙に味が違う。
「いただきます」
「いただきます」
「あ、これ醤油入れすぎてるな。まずくないか?」
「悪くねえぜ」
花京院は生姜焼きをつつきながら承太郎を見た。
「君んとこはホリィさんの手料理が最高すぎるから、対抗する気力も起きないよ。逆に楽だ」
「お前の料理、俺は好きだぜ。お世辞じゃあねえ」
「ありがとう」
料理だけではなくて、という言葉を、承太郎は白米と一緒に飲み込んだ。花京院が広い口の中に食べ物をかっこんで、頬を膨らませながらもぐもぐ咀嚼するのを好ましく思って見ているなど、考えてもいないだろう。そうして味噌汁をすする承太郎を、花京院もこっそり見ているのだということに、承太郎も気付いてはいなかった。

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「…やあ空条」
「……どうした花京院、大丈夫か?」
「大丈夫? 大丈夫かだって!? ああ大丈夫さ! もう気楽なものだ! なにせついさっき、僕らの[[rb:死の行進 > デスマーチ]]は終わりを迎えたのだからね!! 今ならあのブランドーにだってキスしてやれるよ!」
「悪いことは言わねえ、それだけはやめろ。そうか、やっと終わったんだな。これから帰宅か?」
「そのつもりだ。今日はもう携帯切って寝てやる。何か起きたら上司のせいにする」
「そうしろ。ゆっくり休めよ」

「やあ空条、おはよう」
「ああ花京院。もう目の下の隈は取れたみてえだな」
「おかげさまで。代休消費して有休も使ってやったさ。デスクのことなんて知らんぷりで」
「そうか、それはよかったぜ。そしてつまり」
「ああ、つまり、棚に上げた荷物たちを降ろさなければならないということだ……」
「まあ無理はすんなよ」
「ありがとう。じゃあまた昼に」
「おう」

「やあ空条、ちょっといいかい」
「花京院か。どうした?」
「この前もらった設計書なんだけど、こっちでもミーティングで通しておいたから、これ」
「おう、ありがとな。この付箋ついてるところだけか?」
「うん。今回は前々からこっちでも動いてたし、そこだけチェックしなおしてくれればいいよ」
「助かるぜ。明日の昼までには出す」
「頼んだよ」

「やあ空条」
「おう花京院、お前も休憩か?」
「うん。パソコン見つめすぎて目がショボショボしてきた。うーん今日はコーラでいいかな」
「お前、何でも飲むよな」
「気分によって変えてるからね。空条はいつもコーヒーだよな」
「まァな」

「やあ空条、さっきの話、本気かい?」
「おう、メール見たか花京院。俺のほうまで話が来ることは少ねえんだがな」
「だからって何も、僕じゃあなくても」
「他に誰も思いつかねえ。心配するな、同僚じゃあなくて友人だと紹介するつもりだし、今回のことは業務には関係ないってジジイも言ってる。嫌なら断ってもいいぜ」
「うーん、そこまで言われたら行こうかな…。空条、スーツ選ぶの手伝ってくれ。これじゃ恥をかきそうだ」
「いいぜ」

「…やあ……あー…ええと………承太郎」
「………おう」

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承太郎はチケットを手に、キャリーケースを押して車両を歩いていった。23のA、23のA、23の…あった、ここだ。扉を開けると、中にいた男と目が合った。
「ああ、あなたが同室の方ですね。短い間ですが、よろしくお願いします」
「ああ、こちらこそ」
承太郎はコンパートメントに入り、荷物を棚の上に上げた。座席に座り、コートのポケットに入れておいた文庫本を取り出して、栞を挟んでおいたページから読み始める。
少しだけ気になって、ちらりと同室の男を見た。彼は肘をついて窓の外を眺めていた。つられて外に目をやる。延々続く山の風景に、たまに山間の村が混ざる。これといって面白いものでもなかったので、また本へ目を落とした。
そうして30分も読み進めたあたりだろうか。ふと気が付くと、どこからかかすかな歌声が聞こえていた。とはいえこのコンパートメントには、承太郎の他には一人しかいない。
承太郎は目の前の男の顔を見た。ゆるく長い髪には、ひと束特徴的な前髪がついている。切れ長の目の色は、日本人にしては薄い茶色だ。それから襟元をきっちり閉じた緑の学ラン。緑。
「……『緑の袖の恋人よ、あなたはどうして行ってしまったのか』……」
「その歌は俺が歌うべきなんじゃあねえのか、花京院」
男は笑顔を見せて振り向いた。
「そうかなあ。僕は『間違って』はいないよ。今でも最良の選択をしたと思っている。悪いけどね、死の間際、僕は君のことなんか、これっぽっちも思い出しはしなかったよ、承太郎」
「………」
承太郎は黙って花京院の目を見つめた。その瞳の中には、自分の姿が映っている。緑の目の恋人。
「だが、これからは」
承太郎がその先を言う前に、ぽーんと音が鳴った。車内放送だ。
「アメリカからお越しの空条承太郎様。お連れ様がお待ちです。次の駅で途中下車ください。繰り返します……」
「どうやら君は、この列車に乗るにはまだ早すぎたようだね」
「花京院、俺は…」
「さあ、降りる準備をしたまえ。娘さんが待っている」
承太郎は渋々ながらも立ち上がり、棚から荷物を下ろした。
「俺はまたこのコンパートメントに来れるのか?」
「さあね。君が来たいと思えば来れるんじゃあないのか」
「どこにいようと見つけ出す」
「そういう台詞は奥さんに言ってあげなよ」
承太郎がコンパートメントを出て行くまで、花京院は彼をじっと見つめていた。だが、承太郎が最後に中を覗き込んだ時には、彼はもう、窓の外を見ているばかりだった。

(グリーンスリーヴス)

おしまい あるいは はじめから