海星の恋

 

昔々ある海に、承太郎というヒトデが居ました。
彼の瞳は海をそのまま映したような深い緑で、それがきらめく様子はまるで輝く星のようだと言われていました。

 

そんな彼がある日、海で評判の人魚を見る機会がありました。
なんでもその人魚は魔法の力を持っていて、機嫌さえ上手く取ることが出来れば、どんな願いでも叶えてくれるというのです。
それを聞いて承太郎は、自分はその人魚を気に入ることは無いだろうな、と思っていました。

 
 
 

人魚が居るという岩場の辺りには、いつも色々な魚がごった返しています。
承太郎がその辺りを通ったのは偶然でした。
ざわざわした喧騒の中から、凛とした声が聞こえてきて、思わず足を止めます。
「とても申し訳ないのだけれど、少々疲れてしまったようだ。どうか僕を一人にして欲しい」
おや、人魚はお姫様だと聞いたが、根も葉もない噂だったか、と思って承太郎は岩場を覗き込みました。
そこに居たのは一匹のオスの人魚。
長い前髪をゆらゆらとたゆたわせています。
どうせ権力に溺れた傲慢な顔か、それとも見た目だけは愛らしい媚を売るような顔をしていると思い込んでいたのに、彼は整っているけれどもどこか尖った印象を与える顔に、憂いを含ませて俯いていました。
人魚のため息が、小さな波を作って揺らめき、すぐに消え去ります。
その様子に承太郎は、今までもったことのない感情を覚え、気が付いたら彼の前に足を踏み出していました。

 

「どうしたんだ」
えっと声を上げて人魚が顔を上げました。
真白な肌に亜麻色の瞳、エメラルドグリーンの美しい鱗を持つ人魚です。
その鱗が光るたび、承太郎の中に湧き上がってくるものがあるのですが、それが何かは分かりません。
人魚は完璧に計算され、かつ使い古された、感じのよく見える笑顔を作りました。
「……少し疲れた、と言ったのです。聞こえませんでした?よろしければ僕を」
「疲れるんならあんな奴ら相手にしなければいい。お前の力にしか興味の無い魚どもに囲まれて楽しいのか?」
すると彼は眉根を寄せて不機嫌な顔をしました。
承太郎は、貝殻を集めて作った人形のような笑顔より、こっちの方がいいなと思いました。
「あなたに何が分かるのですか?僕の価値は魔法の力にこそあるのですよ」
「もうそんな奴らと付き合うな。俺が毎日会いにくるから」
その言葉に人魚はひどく驚きましたが、言った承太郎本人も驚いていました。
けれど人魚の魔力だけが目当ての魚たちの代わりに、自分が人魚の相手をしてやるというのは、これ以上ないほど素晴らしいアイディアに思えたのです。

 
 
 

人魚の名前は花京院といいました。
約束どおり承太郎は毎日毎日花京院の元に訪れて、綺麗な珊瑚を見せたり遠い海の話をしたりしました。
花京院は優雅に泳いでは鱗を輝かせ、承太郎の目を楽しませました。
二人で手を繋いで海を泳ぐときの幸福感と言ったら!
けれど二人とも、どうして自分の胸がこんなに温かいのか、どうして「じゃあまたね」と言って別れたあとあんなにも淋しいのか、はっきりと分かっていませんでした。
花京院のところにはその魔法の力を頼りにする魚たちがまだやってきては、色々な頼みごとをしていきます。
子供の調子が悪いとか、波で家が崩れたとか、そういった可哀想な魚たちよりも、もっと長い尾っぽが欲しいとか、もっとたくさんの真珠が欲しいとか、わがままばかりの魚が目立ちます。
それでも花京院はにこにことその願いを叶えてやっていました。
魚たちはもう、「ありがとう」の一言も言いませんが、それでも花京院は、それが自分の使命だと思っていたのです。

 
 
 

ある日のことです。
承太郎は花京院の細い指にはまっている指輪に目をつけました。
シンプルな型で装飾の全く無いそれは、けれどその重圧感からただの指輪でないことが分かります。
花京院はその指輪のほかには何も身につけていません。
そのことを思うと、突然承太郎の中に、指輪に対する気持ちのよくない思いが生まれました。
花京院が以前、愛おしそうに口付けしていたことを思い出して、気が付いたら彼の指からそれを抜き取っていました。
「承太郎!返してください!」
彼が今まで荒げたことの無い声を荒げるのに、何故だか暗い心地よさを感じながら、承太郎は泳いでいきました。

 

見れば見るほど不思議な指輪です。
ずっと白い色をしていると思っていたのに、緑に発光しているようでもあれば、うっすらピンクにも見えます。
何で出来ているのか、水の泡のように軽いのに、ずっしりと重くさえ感じられます。
つい夢中になって指輪をながめすがめつ泳いでいたら、前方から魚の群れが泳いでくるのを避け切れませんでした。
承太郎本人はもみくちゃにされることは無かったのですが、指輪がぽろりと零れ落ちてしまいました。
運悪くそこは海溝の上で、奥底に入り込んでしまった指輪は、承太郎がどれほど探しても再び姿を見せてはくれませんでした。

 

自分の持っている宝物は全て彼にあげよう。
持っていないものだったら何をしても手に入れよう。
彼が望むのなら、その目の前から姿を消そう。
そう思いながら承太郎が力なく花京院のところに戻ると、彼は岩場の上に蹲っていました。
いつも花京院の周りを取り巻いている魚たちが居ません。
とてもとても嫌な予感がして、それでも言わなければいけないことがあって、承太郎は彼に近づきました。
花京院が顔を上げると、その目の周りが塩気で腫れ上がっていました。
彼が泣いていたという事実は、承太郎を非常に動揺させました。
それで何も言えずにいると、花京院のほうが口を開きました。
「君が指輪をなくしたことは分かっている。僕の中から魔力が全て消え去ってしまったからね。
あの指輪が僕の力の元だったんだ。あれは海の神様から貰ったものだったんだよ」
ただ彼の気を引きたかった、けれど承太郎は取り返しのつかないことをしてしまったのでした。

 
 
 

それから毎日承太郎は、花京院の元に行く代わりに海溝に向かい、暗い中を指輪を探して泳ぎました。
けれど光の差し込まない岩場の奥、承太郎は自分の体を傷つけるだけで、指輪は一向に見付かりません。
花京院は毎日一人で、ほろほろと泣いていました。
今まであんなに自分を頼ってきた魚たちが、もう彼を見向きもしなくなったのです。
ただ泳ぐしか出来ない人魚なんて、なんの役に立つっていうんだ?

 

花京院が泣き疲れて、尾びれを抱いて眠っていた夜のことでした。
一目その姿を見に、承太郎がやってきました。
彼はひとつの決心をしたのでした。
暗くて指輪が見付からないなら、光で照らしてやればいい。
自分が海の星だというのなら、空の星になって光ればいい。
目尻を赤くして眠っている花京院に、触れるだけの口付けを残して、承太郎は海面に泳いでゆきました。
海の神様とは海そのもののことです、承太郎は泳ぎながら強く強く願いました、空に上って星になれるよう、と。
水面に近づくにつれ、承太郎の体がぼんやりと輪郭を失い、失ったところから光り始めてきました。
自分の体がなくなっていく不安より、これで花京院が指輪を探せるという安堵感の方が大きく、承太郎は穏やかに笑っていました。
そして最後に体の芯までが光になって、空に浮かべるほど軽くなって、承太郎は海の上に顔を出しました。

 

急激に体を取り戻す感覚と、生まれてはじめての「水を浴びせられる」感触に、承太郎の頭はぐらぐら揺れました。
上下が覚束ないながらも顔をめぐらすと、見たこともないほど必死な形相の花京院が自分の体を引っ張っているのが分かりました。
力強い尾びれの一振りで、承太郎を海底へ連れ戻します。
その躍動は、魔法の力なんか無くたって、十分に美しいものでした。

 

とうとう海の底まで辿り着き、承太郎が空へ浮かんでいかないのを確認して、花京院は彼を怒鳴りつけました。
「この馬鹿!一体何をするつもりだったのか、自分で分かっているのか?
君、存在が消滅するところだったんだぞ!」
「それでも、それで指輪が見付かるのなら……」
「そんなものはどうだっていいんだ!」
承太郎はびっくりして花京院を見つめました。
彼の目の周りの水が時折ゆらと揺れます、花京院は泣いているようでした。
「指輪なんてどうでもいいんだ。初めは魔力をすっかりなくして魚たちに気にかけてもらえなくなって、それで泣いていたんだけれど……だって、君、指輪を探してばっかりで僕に会いにきてくれないんだもの。君が、魔法の使えない僕なんかつまらないって言うなら、もうどうしようもないけれど……」
「そんなものはどうだっていい」
今度は花京院がびっくりする番でした。
承太郎が強く花京院を抱きしめたからでした。
「お前はお前でありさえすればいい。くだらないことに力を使うな。……俺を許してくれるか?」
「勿論だよ。一人になって分かったんだ、僕が欲しいのは力でもなんでもなかった、君なんだ」
そういって花京院はようやく笑って、承太郎を抱きしめ返しました。

 

それから空の星になりそこねた海星は、魔法の力をなくした人魚の元をずっと離れることなく、二匹で幸せに暮らしましたとさ。

 
 
 

えぬっちけーみんなのうたより。