おおかみ

 
 
 

花京院の家には馬がいなかった。
代わりに、大狼を育てていた。
大狼は育てば馬ほどの大きさになるし、勇猛果敢でよく戦う。
だが馬とは違って、心を許したものしか背中に乗せないのだ。
花京院典明も、幼い頃から大狼の飼育に携わっていた。
彼には、とても大事な友人が二人いた。
一人は大狼と普通の犬の間の子で、花京院と同じ日に生まれた、名をハイエロファント・グリーンという。
もう一人は花京院が物心つく前から一緒に育てられた大狼で、こちらは名が承太郎である。
ずいぶん名前の雰囲気が違うが、ハイエロファント・グリーンは花京院が名付け親、承太郎は代々の命名方式に則ってつけられた名前なのである。
花京院とハイエロファント、そして承太郎は、切っても切れない友情で結ばれていた。
彼らはよく三人で野に遊んだ。
彼らは心から笑い合える友人だった。
花京院に声変わりが来ても、承太郎の体が他の大狼と比べてとても大きくなっても、対してハイエロファントがあまり大きくならなくても、彼らの友情は変わらなかった。
年頃になった花京院が年頃になった承太郎に求愛されたとき、彼の心に浮かんだのは驚きと、それから紛れもない喜びだった。
そこで彼らは、ハイエロファント・グリーンの祝福のもとで夫婦となった。
花京院が承太郎を運動させるために山に登り、そこに鳥たちばかりしかいないことを確かめたら、二人は夫婦の契りを結ぶのだ。
心の正しいハイエロファント・グリーンはいつも席を外したが、他の獣や人間が来る気配を感じたら、すぐに走ってきて教えてくれた。
花京院は承太郎の黒くてこわい毛が大好きだったし、承太郎も花京院のふわふわ揺れる赤毛がとても好きだった。
彼らは相思相愛の恋人同士だった。
彼らはとても息があっていたから、大狼の仔の面倒を見たり、荷物を運んだりといった仕事も、よくこなした。
承太郎は、花京院の前ではとても従順な大狼だった。
だが他の人間が手を伸ばそうものなら、鋭い牙を見せて威嚇するのだ。
彼の心は花京院の元にのみあった。
離れ離れになるなんてこと、考えたこともなかったのだ。

 
 

さて花京院が17になった年のこと、都のほうから、一家に一人若者を西方の前線に出すようにとのおふれが出た。
蛮族の侵攻がひどくなってきており、対抗するためとのことだ。
花京院は承太郎にまたがり、ハイエロファント・グリーンを連れて西方へと向かった。
宿営地では、他の兵士たちは自分たちの馬と承太郎を遠ざけたがった。
花京院は、承太郎が他の人の馬を食べるなんて頭の悪いことはしないと分かっていたけれど、それは好都合だったので、ずっとそばに置いていた。
承太郎はどんな馬よりも速く強く、花京院は馬上の訓練では負けなしだった。
ところが。
その日は、王族の血を引くという将校――前線には立たないタイプの――が視察に来る日だった。
彼はつまらなさそうに宿営地を見て回っていたが、そこに一匹、とても大きな大狼がいるのを見つけて色めきだった。
「これ、あれは誰の大狼じゃ?」
「はい、東の花京院の若者のものにございます」
「あれが戦うところを見たい。用意をさせよ」
「は」
そうして呼ばれた花京院は、模擬戦を見事に戦った。
それは見事に。
心が通じあっている恋人と二人なのだから、当然のことといえよう。
だが彼の戦いぶりは、見事すぎた。
将校はとても興奮し、承太郎が欲しいと言い出した。
花京院がやんわりと、大狼は慣らすのが一番大変ですから仔からはじめてはと勧めても、承太郎がいいといって聞かないのだ。
花京院は断れる立場にいなかった。
拒否すれば、花京院本人と承太郎、それからついでに連れている犬も命がなくなると聞かされて、花京院は首を横には振れなかった。
イエス以外の選択肢はなかったのだ。
承太郎はとても賢い大狼だったから、自分の首筋に顔をうずめてすんすん言う花京院を見れば、何があったのかはすぐ理解した。
彼ともう一人の友人に危害が及ばぬよう、連れて行かれるときは、承太郎はとても神妙な様子だった。

 
 

承太郎をなくしてからの花京院は、目も当てられない有り様だった。
彼は馬に乗ったことがほとんどなかったし、意気消沈して歩兵としても役立たずだった。
そしてある日の訓練中に、盛大に落馬して足をひどくくじいた。
馬には乗れない、自分の足で走ることもできない。
タダ飯ぐらいになってしまった花京院は、後方に帰されることになった。
行きはすぐだった長い道のりを、花京院はハイエロファントと二人で杖をつきながら歩いていた。
「ぼくってなんてだめなんだろう?承太郎とは別れちゃうし、戦には参加すらできなかったし。家の名に泥を塗ってとぼとぼ帰るだけだ」
花京院はため息をついた。
彼の手をぺろぺろと舐めていたハイエロファント・グリーンは、はっと顔を上げると、キャウンと一声鳴いて駆け出していった。
花京院はそれを追うことができなかった。
できないことは、ハイエロファントにも分かっているだろうに。
「ああ、とうとう彼にも愛想をつかされてしまったんだろうか?承太郎を手放すようなだめなやつだものなあ」
けれど、花京院の頬に雨が降る前に、彼を大きな影が覆った。
とても馴染みのある大きさだ。
花京院は顔を上げた。
嬉しそうな顔のハイエロファントに付き添われているのは。
「ああ、承太郎、もしかして君、逃げ出してきちゃったのかい?ちぎれた縄が足に絡まっているぞ」
ぐる、と喉を震わせて鼻をすり寄せてくる大狼の首に腕を回しながら、花京院は半べそで笑っていた。
すっかりよくなった花京院が、黒い毛の大狼にまたがって鬼神のように戦場を駆け回るのは、もう少しだけ後の話だ。