パブロフとシュレディンガー

 
 

花京院典明の死ぬところは見ていない。
死んだところならなおさらだ。

 
 
 
 
 

空条承太郎はジョセフ・ジョースターとともに日本へと帰国した。
行きは50日かかった距離は、飛行機ではあっという間だった。
彼は母親が無事に回復したのをみとめ、心から喜んだ。
そうして彼は、一介の高校生に戻ったのだ。
 
 
学校生活は、前は承太郎にとってあまり愉快なものではなかった。
家と学校を行き来するだけの生活。
母親と自分と、あとはその他大勢で構成された世界。
けれど今は違う。
今の承太郎には、花京院がいる。
命を預け合った朋友は他にもいるが、彼は特別だった。
しかも彼は同じ日本人、同じ年頃、おまけにDIOの工作とはいえ同じ高校に転校してきているのだ。
日々が楽しくならないはずがなかった。
承太郎が花京院を気に入っているところというのは、挙げていけばきりがない。
まず彼は、うるさくない。
なのにきちんと存在している。
承太郎の周りの人間といえば、騒ぎ立てる女か突っかかってくる男か、あとは関わらないようにと避けて行くやつらだけだった。
だが花京院は違う。
今もこうして、承太郎の隣で涼しげにしている。
一言も、何も言わないが、その沈黙が心地よい。
自分の隣は花京院のために空けてあったのだと、承太郎はそう感じていた。
今も、これから先もずっと、彼だけだろう。
 
 
それから、ころころ動く表情。
打ち解けられていなかった最初こそ、スカしたやつかと思っていたが、そんなことは全くなかった。
焦る顔、怒る顔、してやったりという顔、そして何より気高い、覚悟を決めた顔。
承太郎はそのどれもが好ましいと思っていた。
ほとんど気の抜けない旅だったが、それでも笑顔もたくさん見た。
帰ってきてからは笑うことばかり増えていって、それは承太郎をも笑顔にさせていた。
 
 
承太郎は、花京院の外見も好きだった。
ふわふわ揺れる、男にしては長めの赤毛など最たるものだ。
赤毛と言っても欧米人のそれではなく、あくまで日本人の髪の、色素の薄いものだ。
ちょうど、通学路の神社の下り坂に生えている木の、その枝の色に似ている。
思えば、花京院と初めて会ったのも、あの場所だった。
今度、あの木の種類を彼に聞いてみよう。
彼は博識だから、知っているかもしれない。
知らなかったとしても、二人で図鑑を開くのも楽しそうだ。
「染めているわけではないんだよ」
彼はそう言っていた。
実際、旅の間は染める時間も手段もなかったわけだが、彼の髪は赤いままだった。
承太郎は、花京院の一束長い前髪に指を絡ませて、くるくると触るのを気に入っていた。
彼が、少し目尻を赤くして、「やめてくれよ承太郎」と困ったように言うのも。
 
 
花京院はやたらと承太郎の顔の造形を褒めちぎるが、彼だってなかなかのものだ。
彼の顔は、ともすれば切れてしまいそうな雰囲気を見せる。
鋭い目、細い眉は形よく、横に少し広い唇が、弓なりに持ち上がるのも好ましい。
彼の顔は、どこかアンバランスだ。
前髪が片方だけ長いのもあるかもしれない。
けれど、それだけではない。
決して醜いわけではない、むしろその逆なのだが、その美しさにはどこか危ういものがあって、気を抜けば奈落の底に転がり落ちてしまいそうだ。
そうならないよう、承太郎はしっかりと目と目を合わせ、花京院の顔を見つめたものだ。
「何か顔についているかい」
彼がそう言う。
承太郎は素直に、「お前の顔に見とれていただけだぜ」と言った。
すると彼は、「君じゃないんだから」とか何とかもごもご言って、持っていた本で顔を隠してしまったのだ。
けれど、それで諦める承太郎ではない。
今だって、隙あらば花京院の顔をまじまじと見つめては、恥ずかしがられている。
 
 
もう少し突っ込んだ話をすると、彼らは恋人同士である。
安心して背中を預けられる存在がこれほど心地よいのだと知って、あとはすぐだった。
花京院は承太郎の胸に手をやってつっぱり、「こんな非日常な旅だからだ、手頃なのが僕くらいだからだ」と絞りだすように言った。
承太郎はその腕をとって自分の胸へと引き寄せた。
「ごちゃごちゃうるせえぞ、俺はお前のことが好きだ。お前だって俺のことが好きなんだろう。だったら何も問題ねえじゃあねえか」
旅が終わって、と花京院は言った。
この旅が終わって日本に戻って、かわいい女の子を見れば、君の気持ちも変わるさ、と。
それでも旅の間だけは夢を見せてくれと、泣きそうな顔で笑った彼を、承太郎は全身全霊で愛した。
そうして彼を愛しく思いながら帰国してみれば、周りの女生徒たちが以前にもましてくすんで見えたので、やっぱり何も問題はなかったな、と思ったのだ。
 
 
彼らの関係はいつも、承太郎が上で花京院が受け入れる側だった。
話し合いや殴り合いで決まったことではなかった。
二人とも何も言わずに、自然とそうなったのだ。
初めは苦労もあったが、お互い若いからか、すぐに相手を満足させられるようになった。
二人で抱き合うのは、とても満たされることだった。
身体も心も、どちらも。
もちろん、高尚なことばかり考えているわけではない。
承太郎は、花京院の細っこい腰が特に好きである。
手を回すとちょうどよく収まるし、具合もたいへんよろしい。
二人とも学生であるから、帰ってきてからは好きに抱けないことも多かったが、承太郎は手に残った花京院のぬくもりに、とてもお世話になっていた。
 
 
空条承太郎は花京院典明を愛している。
これから先も愛し続けると、名も知らないどこぞの神にだって誓うことができる。

 
 
 

承太郎が花京院の死を告げられたのは、ただ二回だけだ。
一回目はかの仇敵の口から、二回目は全てが終わった車の中で。
承太郎は、花京院が死ぬところを見ていないし、死んだところも見ていない。
見ていないことは、起こったかどうか分からないことだ。
承太郎は未だ、花京院が生きているのか死んでいるのか、観測していない。
猫の生死に関する思考実験は、当時の量子学への批判の側面が大きいから、この世界に当てはめるには現実的ではない。
だが、もしあの猫が現実にいるものと考えるなら、花京院だって生きているのと死んでいるのが重なりあって存在しているはずだ。
承太郎はまだ、パンドラの箱を開けていない。
だがしかし、世界はこれほど、花京院を示唆するものに溢れているのだ。
彼の髪の色、笑顔、姿かたちにその温度。
そして、他の誰も入ることのできない自分の隣。
彼が猫なら自分は犬だろうか、と承太郎は空想した。
彼に関連づいたものをみとめるたびに、そこに花京院を見出す自分は、まるでベルの音だけで涎を垂らす犬のようだ。
だがそれも、悪くはない。

 
 
 
 
 

空条承太郎は、花京院典明の死ぬところは見ていない。