背びれと尾びれとその長さ

水の中である。
承太郎は、この水が狭く仕切られたものであることを知っていた。
彼はこの水族館の生まれである。
けれど彼の親は、「外」の水から連れて来られたのだと言っていた。
そこには「壁」がなく、水は広く広く、そして常に死の危険と隣り合わせだという。
承太郎は、少し泳ぐだけで「壁」にぶつかるこの狭い水の中を、とても気に入っていた、というわけではない。
わけではないが、それでもここが自分の生まれであるし、ここ以外に行くところがないのだって、よく分かっているのだ。
それに、と彼は考える。
それに、ここにはあいつがいる。
あいつは少し前に、数匹の仲間とともに承太郎のいる水の中へやってきた。
「壁」に映って見える自分の姿にそっくりだ。
だが自分より一回り小さいし、尾びれの形もちょっと違って、長めのそれは水にゆらゆら揺れる。
それから黒い瞳でこちらを見て、緊張した声で「こんにちは」と話しかけてきた。
それで承太郎は、この魚がすっかり気に入ってしまって、いつも一緒に泳ぐようになった。
餌の争奪戦の勝ち方も教えてやったし、「壁」の外から見つめてくる大きな生き物と、そいつらから隠れるのにちょうどいい岩の影も教えてやった。
その魚の名前は花京院といった。
その名前は、承太郎の中にすとんと自然に落ちた。
この細身で優雅な魚に、とても良く似合う。
そしてそれは、他でもない自分が彼を呼ぶのに、これ以上ないほどしっくりくる名前であった。
承太郎は事あるごとに花京院に呼びかけ、隣で泳ぎ、一緒に餌を食べた。
だから、承太郎が俺のために卵を産めだとか、俺の兄弟にもお前ほどの魚はいねえだとか言う度に、花京院がつらそうな顔をするのに気付かないはずがなかった。
ある日承太郎が花京院の背中のトゲにキスをしながら
「お前みたいなやつは初めてだ。とても懐かしいのにすごく新鮮で、俺にそっくりなのに決定的に違う気がする」
と話しかけていると、花京院はふいに身動ぎして承太郎を振り払い、水草の間に隠れてしまった。
「おい、花京院?どうした?」
慌てて追いかける承太郎から、花京院はやっぱり逃げてしまう。
「おい、どうしたんだ?俺が何かまずいことを言ったか?逃げるなら理由を教えろ!」
承太郎には、彼に嫌われてはいないという自信があった。
もしそうであれば、彼の長い尾や細い口先を褒めた時、あんなに嬉しそうな顔はしないだろうし、それに、「お客」たちが皆いなくなり、他の魚達も身を潜めた夜、彼の縞模様に口付けて、「お前のことが好きだ」と囁いた時も、彼は確かに少しだけ俯いて、「……僕もだよ」と返してくれたのだ。
だから承太郎には、花京院が泣きそうな顔をして泳いでいってしまう理由が分からなかった。
けれどここの水は狭く、少し泳げばすぐ「壁」にぶつかってしまう。
花京院はすぐに、水の隅へと行き着いてしまった。
「……花京院。何か不安になることがあるのなら、俺に教えてくれ…頼む」
花京院はしばらくちろちろとひれを動かして泳いでいたが、とうとう承太郎に向き合い、震える声でこう言った。
「承太郎、僕、僕は……僕はね、君とは違う種類の魚なんだ」
「なんだって?だがお前は、俺や俺の親兄弟にそっくりだ」
「あのね、承太郎、僕、この外のもっと大きな水槽から来たんだ。だからね、あっちでスタッフがお客さんに説明しているのを聞いて、知ってるんだ。承太郎、君の種類の魚は、体に毒があるんだよ。だから他の、魚を食べる生き物に狙われにくい。それで僕らの種類は、毒を持ってはいなんだけども、君たちに似た見た目になることで、捕食者から身を守っているんだ。こういうの、擬態って言うんだよ」
「……擬態」
「知ってた?」
「いや、知らなかったぜ」
「そう、だったら、これで分かっただろう」
「何がだ?」
「僕が君を避ける理由さ」
「は?」
「は、って」
「お前は俺とは別の種族だったんだな?」
「ああ、そうだよ」
「で?」
「え、で、って」
「それでお前は俺のことが嫌いになんのか?そのことが俺らに何の関係があるっていうんだ?」
「え?え、いや、だって…ん?」
「いいか、お前は俺のことが好きだろう」
「え、うん、まあ、そうだね」
「俺もお前のことが好きだ」
「うん、不思議なことに」
「ちっとも不思議じゃあねえぜ。で、俺らが好き同士でいるのに、種類とか種族とかどうでもいいだろ?」
「うん?そう…なのか?そんな気がしてきた」
「じゃあ今まで通り、俺とお前は恋魚のままだな」
「うん…?じゃあ、その…これからもよろしく…?」
「おう、よろしくな」
こうしてシマキンチャクフグとノコギリハギはいつまでもいちゃいちゃ暮らしましたとさ。