アスモデウスの受難

 
さてここに一人の少女が歩いている。
少女は一尾の魚を持っている。
それは彼女の婚約者が釣って寄越したものだ。
婚約者は「内臓を香炉にくべるように」と助言をした。
そこで少女は、魚を焼いて食べたりはせず、籠に入れて歩いていた。

 

空条承太郎はよくモテる。
年端も行かない子供の頃からモテていたが、十七で成人してからは毎日のように結婚の申し込みがくるようになり、本人は辟易するほどであった。
そのうち彼は親族の勧めもあり、申し出てきた女性の一人と適当に結婚した。
ところが結婚式の次の朝、承太郎は寝室の中、自分の横で花嫁が死亡しているのを見つけた。
初めは承太郎が殺人の疑いをかけられたが、彼には初夜の記憶が全くないこと、そして何より花嫁の死に方があまりにも不可思議であったため、無罪で釈放された。
花嫁には刺し傷も切り傷も無く、殴った跡も絞めた跡も無く、毒も薬も反応は無く、ただ死んでいたのだった。
結婚した夜に寿命が尽きるなど、なんとも奇妙なことがあるものだ、とみな首を捻った。
ところがそんなことが七回も続くうち、承太郎は悪魔憑きと噂され、求婚者はいなくなってしまった。

 

それから五年ほどを承太郎は独り身で過ごした。
元々彼は自分の結婚には乗り気ではなかったため、特に不幸も悲観もなかったのだが、親族たちは心配をして彼の従兄妹との結婚をお膳立てした。
前妻たちはみな婚儀の時まで顔も知らない女たちばかりであったが、ある程度は知り合いである従兄妹とは他に比べれば話が弾んだ。
それでも出席客は通夜のような結婚式だと話していたが。
さてその夜、寝室に赴いた承太郎は突然目がうつろになり、緩慢な挙動で花嫁に近付いた。
彼女は微塵も動じず、魚の内臓を香炉にくべた。
焚きだされる煙に、壊れた鐘をつくような悲鳴が上がり、承太郎の体から別の影が剥がれ落ちた。
紫の肌とねじれた角と固い蹄を持っていたから、その正体はすぐに知れた。
花嫁が振りかざした、十字架を模した短剣を素早く避け、悪魔は窓から逃げ出そうとした。
しかし悪魔は、窓際でその様子を呆然と眺める承太郎の姿を認めると、途端に大人しくなって動きを止めた。
「待てッ、徐倫!」
「何で止めるのよ、承太郎!こいつはあんたにとり憑いて、あんたの嫁さん殺しまくってた悪魔なのよ!」
「……何か事情があるんだろ」
そう言って承太郎は悪魔の顔を覗き込んだ。
彼は承太郎を見上げ、喉の奥に小石を詰まらせたような表情をしていた。
承太郎が波打つ緑の前髪に指を絡めると、悪魔は目を細めてその手に擦り寄ってきた。
「お前、話せるか?なあ、何だってあんなことをしたんだ?」
「…………君が、結婚して誰かのものになるのが嫌だったんだ」
彼の声は見た目に反し (あるいは見た目通り?) 弱弱しい羊の声だった。
山羊の声だったのかもしれないが、か細かったことに変わりは無い。
承太郎は彼の返答に、更に顔を覗き込んだ。
くちばしに鼻先が触れそうなほど近いことに、怯んだのは悪魔の方だ。
いや、彼は正真正銘、心のひねくれた悪魔ではあったのだ。
これは後日談ではあるが、彼は承太郎の親族には平気で嘘を吐き、友人にはいっそ無邪気とも言える様子で氷のナイフのような言葉を放ち、それを僅かも悪いとは思っていない調子であった。
けれど彼は承太郎にだけは常に真摯であり、その日も正直に、何年も前から承太郎を愛しており、花嫁たちに嫉妬をして初夜の度に呪い殺していたと告白した。
それから承太郎の従兄妹にじっとりとした視線を送った。
盛大に呆れ返っていた彼女は、あっさりとこれが偽装結婚だと告げた。
自分には将来を誓い合った婚約者がおり、確かに承太郎のことは好きだが恋愛感情は無いこと、この結婚は完全に悪魔祓いのためのものであることまで彼女が明かすと、承太郎が後を引き継いだ。
「だからな、お前は心配せずに俺と恋仲になればいいんだ」

 

それから少女は自分の村に帰り、本来の婚約者と結婚した。
結婚したその日に離婚して一人で帰ってきた少女は、心無い人たちには白い目で見られたが、彼女の婚約者はそんなことちっとも気にせず、末長く幸せに暮らした。