遠い海嵐(R-15)

 
自分が笑っているのが分かった。
だが、むせび泣く声に紛れて、その笑い声は自分の耳には届かない。
彼には聞こえているのだろうか?
彼は、男にしては長く柔らかな髪を振り乱して懇願する。
「どうかもう止めてくれ、承太郎!」
勿論俺は聞く耳など持っちゃいない。
彼が足をばたつかせて抵抗するので、一発腹に食らわせて大人しくさせてから、根元まで突っ込んでやった。
ついでに頬のこけた顔も殴ってやる。
絹を引き裂くような悲鳴が耳に心地よい。
目隠しに使ったネクタイに手をかけると、暗い色だったので気付かなかったがぐっしょり湿っていた。
随分泣いたようだ。
そのままネクタイを解いてやれば、現れた両の目は涙で潤んで男を誘った。
そんな目で挑発するように睨んでくるものだから、足を抱えなおしてお望みの通り揺さぶってやった。
彼は「殺してやる」だとかなんだとか呪詛の言葉を吐いてはいたが、縛られた腕ではもがく以外の何もできず、その白い体を無理矢理開いて犯す男を更に笑わせるだけだった。
そう、俺は笑っていたのだ。

 
 
 

「……はい、ありがとうございました」
挨拶もそこそこに、慌しく学生は研究室を出て行った。
見送る自分の目には何の感慨もなく、たいそう冷たい表情をしていることは想像に難くない。
同僚からも妻からも、ほんのもう少しでいいから愛想良くしてみてはどうかと提案されることが度々あったが、したくともできないのだから仕方がない。
「空条博士は石のようだ。生きているのか死んでいるのか分からない」
学生がそう立ち話をしているのを、偶然耳にしたことがあった。
反論ができないどころか、自分でもその通りだと思っていたので、わたしの顔を見た学生たちが逃げるように去っていったのを少し残念に思うほどだった。
わたしは石のように硬く冷たく、何事にも感動せず、口数少なくただそこにあるだけで、二度と笑うことはない。

 
 
 

「お先にご無礼しました、承太郎、次どうぞ」
そう言って、花京院がシャワールームから出てきた。
こいつは人の心の変化に機敏なくせに、ある一点においてだけは驚くほど鈍感で困る。
濡れた後ろ髪の張り付く白いうなじを、いつもは制服に隠されている胸元を、穴が開くほど見つめてもその視線の意味に気付くことがない。
良くない妄想で眠れない俺の横で規則正しい寝息を立てる花京院の、その薄い唇を塞いでやったら?
その体を奪って俺のものにしたら?
そうしたら彼は、どんな風に泣くだろう?
それとも彼は怒るだろうか、軽蔑するだけだろうか?
そう考えるたびに俺は、英語を教えてくれだとか、好きなミュージシャンは誰だとか、そんなことで話しかけてくる花京院の無邪気な笑顔を頭に浮かべて思いとどまるのだ。
俺が欲しているものは、この信頼に換えられるものではないはずだ、と。

 
 
 

だから俺はあの日、いうなればほっとしたのだ。
花京院が俺のあずかり知らぬところで、『悪の帝王』によって殺されたのだと聞いたとき、安堵のため息を漏らしたのだ!
俺の手で彼を悲しませることはもうないのだと、その考えは俺の精神状態を穏やかに保つのに成功した。
もう10年以上も、ほんの僅かな波さえ起こらないほどに。
そうしてそれから、わたしが手や口を雄弁に振るうのは、ただ夢の中でだけだ。

 
 
 
 

承太郎は思いを遂げるどころか伝えることもできなかったんだけど、花京院のことを好きだからそれでいいと思っている。