赤狐の恋人

ちょっとした人外とちょっとした流血

 
 
 

紹介された海洋学者の屋敷と言うのは、海には確かに近かったのだけれど、一番近い民家までは車で30分という人里離れた場所にあった。
なるほど学者というのは変人が多いのだな、などと偏見を深くしていざその男に会ってみれば、映画か小説からでも抜け出してきたのかと見まごう美丈夫だった。
彼の非現実的な美しさ――実際彼はただ美形であるというだけでなく、浮世離れした、もっと言うと人間離れした雰囲気があった――に一瞬見惚れた我々は、しかし妹のえずき音で我に返った。
客間に案内をする彼が、その体躯を用いて扉を押さえているので気が付いた、彼には左腕がない。
清潔ながらもどこか薄暗い客間に通された我々は、挨拶もそこそこに妹の紹介をした。
妹はいまだに、次から次へと食べ物を口に詰め込んではえずいている。
なおも妹の症状について募ろうとする我々を制し、「こちらも恋人を紹介したい」と言った。
何でこんなときにという気持ちに、彼の恋人というのを見てみたいという思いが僅かながらも打ち勝った。
こんな場所に偏屈な学者と住む恋人とはどんな人物なのだろう?
「本当は妻にしてやりたいんだが、結婚はできねえんだ。男だしな」という言葉に少々驚いているうちに、廊下に続く扉が開かれ、痩身の男性が姿を現した。
はじめ彼は柔和な笑顔を見せて我々に挨拶をしたのだが、背中を丸めて意味不明なつぶやきを漏らす妹を目にした途端、端正な顔をこわばらせた。
見る見るうちにその目は赤く染まり、瞳孔は縦に細長く裂け、耳は大きく尖り、体中から吹き出るように毛が生えてきた。
彼は太い尻尾を閃かせて妹へと飛び掛った。
妹はこの世のものとも思われぬ悲鳴を上げて床に倒れこんだ。
彼女の顔は醜いネズミそっくりに歪んでいた。
学者の恋人、あるいは全長3メートルにもなろうかという巨大な狐は、妹の首に喰らい付いて鋭い牙を立て、でっぷり膨らんだ腹を長い爪で突き破ってはらわたを流出させた。
ところが、ふっと憑き物が落ちた感覚があり、部屋の空気が明るくなると、そこには元通りの美しい顔とすっきりした体格の妹が横たわっているだけで、血の一滴も流れてはいなかった。
しかし狐の方は、ネズミが妹の体から出て行っても興奮冷めやらぬらしく、奇妙に大きな口からよだれを垂らし、赤く光る目で獲物を探し回っていた。
すると今まで静観していた学者がおもむろに上着を脱いで腕を晒した。
彼の左腕は『ない』ものだと思っていたが、ちょうど肘の5センチほど上までは、『残って』いた。
学者が「花京院ッ!」と名を呼ぶと、ひくりと鼻を鳴らして狐が飛び掛った。
狐は青年の腕にかぶりつきバリバリやりはじめた。
骨の砕ける音、むせるような血の臭い、生々しいそれらに我々は、ネズミを追い払ったときの幻覚には感じなかった強烈な吐き気を覚え、妹の元へ駆け寄るのも忘れてうずくまってしまった。
そのうち恋人の血で口内を満たした狐は、正気を取り戻した目をして大人しくなり、ついには人間の姿へと変化した。
学者は怯むでもなく恋人の背中を撫で、功績を称えた。

 

失礼とは思いながらも誘われた夕食を辞退し、我々は帰路に着いた。
玄関で見送ってくれた学者――恋人は気を利かせたのだろう、出てこなかった――に、「腕を犠牲にしてまで妖狐を飼っているのか?」と聞けば、彼は小さく笑って答えた。
「恋人だと言っただろう?俺とあいつは好きあっていて、だから一緒にいる。それだけだ」
それで理解したのだ、人間であるはずの彼が、すっかり別の気をまとっている理由を。
彼は妹など比べ物にならないほどがっちりと、あの狐に取り憑かれてしまっている。
だがよどんだ目をした彼を、「こちら側」へ引き戻すことはもう、不可能なのだろう。

 
 
 
 

一応ポルナレフとシェリーなんだけど、分からないように「我々」にしてあります。