斑の獣 – つきくうけもの

 

―――見ろ、あの月を。どう見ても、墓から脱け出して来た女のやう。―――

 

陳腐とは言わないが、随分と詩的な表現だ。
人が文化的な生活を送るのに詩は不可欠かも知れない。
だが生憎、これから花京院が会いに行く相手は、人ではないのだ。
「……それに」
運転する車の窓の外を一瞥する。
星ひとつない暗闇。
「今夜は月蝕だ」
月は欠けている訳でもなければ、闇に食べられただなんてこともない。
見えないだけだ。
花京院と同じく緊急に呼び出されたと見える飼育員に簡単な状況説明を受けながら、『彼』の元へ向かう。
出会った頃に比べれば大分慣れてくれたとは思うが、やはり『彼』のテリトリーへ踏み込むのには緊張を強いられる。
「やあ、ジョジョ。こんな夜遅くに、一体どうしたんだい」
『彼』はクロヒョウだ。
濡れたような艶のある黒い毛をもってはいるが、ヒョウだ。
月の無い夜、その姿は闇に溶け込んでいるが、闇になった訳ではない。
見えないだけだ。
爛々と光る、緑の目を除いて。

 
 

「また、壁に体を打ち付けてやがったんだ」
苦々しげに飼育員が言う。
ジョジョがそうするのは今回が初めてではなかった。
そのときも花京院が飛んできて、診察したのだが。
明らかにストレスが原因だ。
今は大人しく、花京院が歩み寄ってくるのを見つめている。
「展示は?」
「週に三、四日。様子を見て」
「食欲は?」
「落ちていない。食べ過ぎということもない」
「そうか……さあジョジョ、君の体を見せてくれ。触ってもいいかい?」
引き締まった筋肉と艶やかな体毛に手を滑らせ、怪我がないか確認する。
傷や打ち身などはなさそうだ。
花京院に撫でられながら、クロヒョウが満足げな表情をしていると思うのは気のせいか。
そんなことを思いながら飼育員は獣医と獣の様子を見ていた。
初めてこの獣医に会ったときのことを思い出す。
取り澄まして、獣医らしくないと思ったものだ。
確か名は花京院といった。

 

―――まるで銀の花のやう。―――

 

この造花のような男を見たとき、密輸入されたところを保護された気の荒いクロヒョウを任せても大丈夫かと不安になったものだが。
つい先ほどまで飼育部屋の壁に体をぶつけていた大型獣が、今は安心しきったように花京院に体を預けている。
「怪我はないみたいだ。念のため一週間はお客さんの前には出さないで経過を見よう。何かあったらまた連絡してくれ」
そう告げて、花京院が背を向け立ち去ろうとした瞬間。
がつん。
飼育員と獣医が目をやれば、クロヒョウがその大きな体を部屋の壁に打ち付けているところだった。
「……診療所に連れて帰る。園長の許可を取ってくれ」
獣が笑ったように見えたのは、気のせいではないかも知れない。

 
 
 

診療所へ連れ帰ってからも、クロヒョウは大人しくしていた。
落ち着いた瞳を花京院へと向けてくる。
ストレスで不審な行動を取る危ない獣には見えない。
「やれやれだ。君まさか、わざとじゃあないだろうね?」
可能性は十分に考えられた。
ジョジョは花京院にはなついてくれていたが、他の人間にはからきしだった。
自分の体を傷付ける――ふりをする――ことで信頼した相手に会えると学習してしまい、そのためだけにあんな行為に走ったのかも知れない。
「……少し、嬉しくもあるけどね。不謹慎だけど」
そう言って、コート代わりにはおっていった白衣を脱いだ。
ジョジョはまだ大人しく、診療台の影にうずくまっている。
「だけど君、動物園の環境にも慣れてもらわないと。生肉のストックなんかないよ」
言いながら、大型犬用の水入れに水を注ぎかがみこんで彼の前に置いた。
花京院と目が合うと、ジョジョはその黒光りする身体をゆっくりと起こした。
緩慢な様子だ。
表情にも緊張感はない。
むしろ…笑っているようにさえ見える。
彼は水などには目もくれず、花京院の方へと歩を進めた。
 

濡れた鼻をかがんだ花京院のうなじへこすりつけてくる。
この程度は以前にもあったので油断していた花京院は次の瞬間、目を見開いて体を硬直させた。
ジョジョの鋭い牙が柔らかい首筋の皮膚に押し付けられている。
くわえ込まれてはいるが、顎を使って噛まれてはいない。
彼にとってはこれもただじゃれているだけなのだろう。
それを疑うつもりはない。
自然界ではごく普通のことだ。
だが、花京院とジョジョでは力に差がありすぎる。
ジョジョには兄弟や友人にするように情を示しただけの甘噛みでも、花京院には致命傷にだってなりうるのだ。
動けない花京院の首を押さえたまま、クロヒョウは向かい合う形から寄り添うような形に移動してきた。
四つん這いになった花京院の手の上へジョジョの前肢が乗せられる。
爪は立てられなかった。
あくまでも優しい『手付き』である。
震えて蒼白な手に重なって、ヒョウの黒さが際立つ、いや、彼の黒さに比べられて自分の白さが目につく、と花京院は思った。
彼の前肢が離れていった、と思ったら、後ろからのしかかってくる重さを感じた。
思わず、腰は浮かせたままで上半身だけ崩れ落ちてしまう。
倒れた上方に、診療室の窓が見えた。
だが外には何も見えない。
蒼白く光っているはずの月は、夜の闇に蝕されていた。

 

―――さうとも、月は生娘なのだよ。―――

 
 
 

縮こまった体にのしかかったジョジョが明らかに反応しているのを知って、花京院は更に震え上がった。
人の手から餌を食べるようになり、そんなそぶりも見せなかったので、まさか襲われるとは思ってもいなかった。
しかもそれが、こんな意味だなんて!
「僕は……豹でもないし、そもそも―――女の子でもないよ」
自分で発した声が思ったより落ち着いていて、というか落ち込んでいるように聞こえて、花京院はうろたえた。
僕は自分が豹の、女の子ならよかったと思っているのか?
その考えは奇妙にしっくりきた。
そんなこと一度だって想像したことはなかったが、自分がもしメスヒョウならば、ジョジョとこういうことをするのは至極自然なことだと思ったのだ。
花京院はそろそろと手を伸ばし、すっかり猛っているジョジョのそれに触れた。
ジョジョは一瞬体を緊張させたが、花京院がきつい体勢ながらも振り向いていつものようにまっすぐ目を見つめながら「大丈夫、大丈夫」と言い聞かせると、力を抜いて鼻をすり寄せてきた。
ジョジョのそれは花京院のものとは大きさも形も全く違い、凶暴な彼そのもののように見える。
それでも必死に包み込んで刺激を与えているとジョジョは明らかな反応を返すようになり、腰を動かして花京院の足の付け根に押し付け始めた。
ジョジョが自分の手で高まっているという事実に、花京院はひどく興奮した。
自分の鼓動の音と、ザーザーという血の巡る音がうるさいほどだ。
花京院は要望に応えてジョジョのものを太ももの間へ導き、ゆるく挟んだ。
作業着が汚れることなんて脳裏にも浮かばなかった。
「んん…あ、っんぁ、は……」
ジョジョが動くのにあわせて腰が揺れるのも、鼻についた声も止めることができない。
さっきからずっと膝をこすり合わせていた花京院が、背骨を這い上がる感覚にたまらなくなって自分のものを取り出せば、既に充分な硬さをもっていたそれはあっさりと反応した。
こんなのは初めてだ。
戸惑う花京院の頬に、ジョジョの黒い鼻が押し当てられた。
低いぐるぐるという唸り声に、花京院は知らず肩の力を抜いていた―――ジョジョだってこんなの初めてなのだ。
ジョジョと一緒に息を荒げながら花京院は自分を追い上げた。
不思議と恐怖や不安はなかった。
それどころか、今まで感じたことのない激情に押し流されそうになって、何も考えることができない。
こんな感情は初めてだ、名前も知らない。
「っあ、あぁぁ……!」
一際高く鳴いて達したと同時にジョジョを強く握りこんで、花京院は足の間が生暖かいもので濡れるのを感じた。
それを処理する気も起きず床に倒れこみ、ふと気付くともうとっくに月蝕は過ぎて部屋に月光が差し込んでいる。
月の光に、夜だというのにやけに瞳をきらきらさせて、ジョジョが花京院の顔を舐めてくる。
ふっ、と彼に笑いかけて、その黒い頬にキスをした。

 

―――名はなんといふ?―――

 
 
 
 

引用部分はワイルドの「サロメ」より。