食人鬼

少しですがタイトル通りのもぐもぐ表現があります。
 
 

ぱぁん、と乾いた爆音が響く。
狙いは完璧だった。
―――だが、相手が速すぎた。

 

承太郎と対峙する相手は、人間ではなかった。
筋肉の塊のような体が宙を舞い、鋭い指――爪はなく、硬い角質に覆われている――が承太郎に向かって突き出された。
とっさに銃で防ごうと、右腕を振り上げる。
ところが、それを分かっていたかのように、相手の指は予想を大きく外れた軌跡を描いた。
あっと思う間もなく、―――承太郎の右腕は、肘から先がなくなっていた。
それはすなわち、右手が握っていた銃をもなくしたという意味だ。
拾い上げる隙など作ってくれる相手ではない。
にやり、と、相手が笑った気がした。
承太郎はその笑みを見た途端身を翻し、―――逃げた。
必死だった。
奪われた右腕がどうなるかなんて、考えている余裕はなかった。

 

承太郎の仕事は狩人だ。
とはいえ、鹿やウサギを狩るわけではない。
彼の専門は幻獣だった。
彼は今まで、逃げ出したペガサスを捕らえ、怒り狂うユニコーンを狩り、荒野で人を襲っていたスフィンクスをなだめてきた。
彼が失敗知らずなのは、今彼が無事に生きているということから分かるというものだ。
彼の相手はそういう相手だった。
そして今回彼が請け負ったのが、食人鬼(グール)だった。
彼はグールと戦うのは初めてだった。
だが幾度となくシミュレーションを繰り返し、確実に息の根を止められる銃を用意した。
だが――あんなに速いとは。
グールとの戦いは圧倒的だった。
承太郎には何も出来なかった。
手も足も出ない、どころか片手を奪われてしまった。
承太郎は血止めの薬草を腕に巻きつけ、思案した。
腕を奪われたくらいで諦める気はない。
しかし、五体満足でも敵わなかったのだ。
どうしたらいい。
どうしたらあいつを止められる――…ふっと、腕に巻きつけた薬草が目に映った。

 

次の日、承太郎は丸腰で墓場へと赴いた。
グールは普段、墓場の死肉を食べて暮らしているのだ。
しかし承太郎が右腕を失った今、つまりグールが承太郎の右腕を手に入れた今、やつは生餌を欲しがるはずだ。
そう考えた通り、承太郎が縄張りに足を踏み入れるとすぐに、グールが姿を現した。
まったりした体つきに、伸び放題の髪が一房顔にかかっている。
グールは承太郎を見て、確かに笑みを見せた。
承太郎は怪しまれないよう、十二分に緊張をまとって近付いた。
途端、グールの体が弾ける。
それを左腕でとっさにガードし、けれど衝撃に思わずよろめく。
やはり、こいつは――強い。
始めの一撃は頭突きだった。
しかし次は、筋肉で出来た体全体を使った体当たりだ。
「―――ぐふッ」
瞬間、息さえ止まる。
とうとう耐え切れずに承太郎の体は傾ぎ、地面に倒れ伏――せようとして落下した。
「何ッ!?」
地に伏せるまで思い描いていた通りだっただけに、落下そのもののショックより予想外のことが起こったショックの方が大きかった。
左腕しかないとはいえ、とっさの受身さえ取れない有様だ。
ガンガン痛む頭を静めてあたりをようやく確認すると、小さな穴に落ち込んでしまったことが見て取れた。
小さな、とはいえ、片腕では這い上がることが出来ない程度には深い。
遠くなった空を思わずぼんやり眺めていると、そこにグールの頭が現れた。
広い口を弓なりにして笑っている。
「野郎―――謀ったな」
呟けど、返ってくるのは静寂ばかり。
グールは一度顔を引っ込め、次に姿を見せたときには、承太郎の右腕を手に持っていた。
昨日の今日でまだ腐ってはおらず、指も五本そのまま残っている。
その指を口に咥えて、グールはポリポリ音を立てた。
明らかに、承太郎に聞かせるための行為だ。
承太郎は生まれて初めての敗北をひしひしと感じていた。
恐怖や嫌悪すら入り込む余地のない、圧倒的な力の差。
ここまでか、と承太郎は思って、自分の頬をかいた。
かぶれた肌が痛々しい。
もう太刀打ちできない、と感じてから、承太郎は自分の肌に毒草を塗りたくって墓場へやってきたのだ。
生餌、つまり自分を食わせて殺す算段だった。
だがその作戦も失敗した。
自分は食われることはないだろうが、じきに飢えて死ぬだろう。
俺には止められなかったな。
悔しさも恨めしさも何故か感じることはなく、ただその事実だけをなぞりながら、承太郎はグールの顔を見た。
いつも戦闘中だったから、まともに見るのは初めてだ。
切れ長の目にすっと通った鼻先、グールにも優男がいるとすればこいつだろう。
赤い髪が一房顔にかかっているのは、戦うのに邪魔ではないのだろうか。
「余計なお世話か。そもそも俺の方が敗者なんだしな」
話しかけるともなしに呟くが、グールはきょとんとした顔だ。
それも当然で、この生き物は人間の言葉を解さない。
承太郎は既に、自分の人生をこの生き物のところで終わらせる気でいた。
相打ちに持ち込めなかったのは最後で最高の汚点だ。
だがこいつの方が俺より一枚も二枚も上手だったのだから仕方がない。
グールが姿を消してから、承太郎は今まで経験した中で一番長い夜を過ごした。

 

何かがべちゃりと顔に当たって目が覚めた。
起きて確認してみれば、それは赤黒くひどい臭いのするもので―――
「おい、これは何の嫌がらせだ。俺が死肉なんざ食わねえのを分かってやってやがるのか」
上にいるグールは、まだ承太郎の右腕を手にしている。
随分お気に入りらしい。
指が一本、昨晩より短くなっているが、食事のつもりで食べたわけではないだろう。
ではあいつが代わりに食べたものは―――
「これの持ち主か」
承太郎は顔をしかめて、頬に付着した死肉の塊をぬぐった。
できるだけ丁寧に、土に埋めてやる。
そんな承太郎を、グールはやはりきょとんとした顔で見守っていた。
その顔は、承太郎に嫌がらせをしたというよりは――何故食べないのか、というような顔だ。
グールに負けて傷心の承太郎は、その表情に気が付かず、そのまま不貞寝をしてしまった。
二度目に覚醒したときも、何かが顔に当たったのを感じた。
見れば、川魚だ。
まだ生きていて、びちびち跳ねている。
そこで承太郎にもようやく合点がいった。
このグールは、俺を――生かそうとしている。
「はッ…、グールのペットになるなんざ、考えたこたァなかったな」
ひとりごちて、しかし川魚はありがたく頂戴することにした。
承太郎が魚に口をつけたのを見て、グールは満足したようにくつくつと笑った。

  

それから、グールと承太郎の奇妙な生活が始まった。
承太郎は職業上、悪食には慣れていたから、グールの投げ込む食料を、たいてい何でもぺろりと平らげた。
そんな承太郎を見つめるグールが手にする右腕だけが日に日に体積を減らしていき、承太郎にはそれだけが唯一『変化するもの』に見えた。
承太郎は漠然と、その腕がなくなるときがタイムリミットだと感じていた。
あれを食べきったら、次こそあいつは本体の俺に手をかけるだろう。
肌に塗った毒草はすっかり雨に洗い流されてしまったから、今度こそ本当の『これで終わり』だ。
そして、その日はやってきた。

 

その日姿を見せたグールは、その手に何も持ってはいなかった。
そして、身を乗り出して穴の中へと降りてきた。
「来たか」
と承太郎は言った。
グールは承太郎の首元、すっかり伸びた髪の中に鼻先を突っ込んで、すんすん臭いをかいだ。
それから承太郎に向き直り――にっこり笑った。
承太郎は頭の中に電撃でも打ち込まれたような気分になった。
こいつ、こいつは。
こいつは、俺を太らせて食べるために養っていたんじゃあない。
承太郎は、グールのしたいことが分かったのを示すために、肘から先がなくなった右腕を彼の前に差し出した。
彼は少し臭いをかいだ後、ペロペロと乾いた血を舐めた。
それから承太郎の服を咥えると、勢いをつけて一気に穴の外へと抜け出した。
承太郎は左手で優しく優しく彼の頭を撫でた。

 

―――自分の体で食人鬼を飼う狩人の話が囁かれるようになるのは、それから少し先のことだ。
だが本人たちに話を聞いてみれば、彼らは顔を笑みの形に歪めてこう言うだろう。
「俺―――彼―――があいつ―――僕―――を飼っているって?まさか、その逆さ!」