斑の獣 – まだらのけもの

 
海洋生物について学んだ大学院を卒業して、机に向かうだけの研究者にはなりたくなかった俺は、しかしいきなり船に乗せてもらえるわけもなく、まずは国内の水族館で海の生き物たちと関わりを持つことになった。
ところがそういう動物を飼育して一般に公開する施設では、人手が極端に足りなかったり、逆に動物が減ってしまって人件費削減に走ったり。
普通の会社よりずっと人事異動が激しいのが通常である。
俺が就職することが決まっていた水族館は、この不況のあおりを受けイルカを何頭も別の水族館に移すことに決定した。
数の減ったイルカの担当スタッフには、当然新人など雇い入れる余裕もなく。
俺は急遽、館長の招待状を持って全く別の動物園を訪れていた。
 

畑違いとまでは言わないが、さすがに陸上生物については個々の種族に関する知識が圧倒的に少ない今。
俺はまず、掃除やら餌やりやらを行う、所謂「飼育員」になることになった。
役職の前には、一年は「見習い」という称号が付くんだろう。
それに不満は無い。
当然のことだからだ。
水族館を追い出されたのは俺のせいではないが、誰かの悪意というわけでもない。
生きた、人間でない動物たちを相手にするのには興味がある。
ここで働くことにも何の不満も無い。
他の飼育員の指導の下、何匹もの動物たちにそれぞれの餌をやり、掃除をし、体調管理や繁殖にはまだ関われないが、その手伝いをし。
いや別に、何かに不満があるわけではないが。
気になることが一つ。
 

この動物園には一匹のユキヒョウが居る。
寒さに耐えるためのふさふさと長い毛に覆われた、けれどその体のしなやかさは微塵も隠れていない、美しい獣だ。
飼育員の間ではノリアキと呼ばれている、若いヒョウである。
その美しさのため密猟者に狙われ、怪我をしていたところを保護されて、ここにやってきたらしい。
そのためか人間に慣れることをせず、かといって怯え威嚇ばかりするわけでもなく。
俺たち飼育員が近付いても何の反応も示さない。
こちらを見ることすらしない。
昼間も夜間もただ岩の上で座り込み、どこを見るともなしにじっとしている。
暴れないからといって従順なわけではない、体を拭いてやろうと近付けば牙を見せながら静かに遠ざかる。
おかげでまだ新米の俺には、彼の耳のすぐ下に片方だけ伸びてしまった毛を切ることが出来ずにいる。
だが、まあ。
お前が人と馴れ合いたくないってんなら、無理強いすることじゃあねえ。
俺に与えられた自由時間の間、ノリアキが許してくれるギリギリの範囲に腰を落ち着け、ストレスにならない程度に彼を観察するのが、俺の日課になりつつあった。

 

俺が動物園で孤独なユキヒョウを観察し始めてから数ヶ月、彼に繁殖の話が出た。
彼にとっては初めての繁殖である。
繁殖そのものが成功することが大事なのではなく、同種のメスと関わりを持たせることで少しでも性格の改善になれば、という話だった。
話を持ち出したのは当然俺ではなかったし、そもそも案の段階でも新入りが口出しをすることは出来ず、その話が俺の耳に入ったのはほとんど決定事項になってからだった。
 

「…テメ、どっか別の動物園のメスとガキ作る話が出てたぜ」
日も落ち、最後に回したユキヒョウの檻の掃除を終わらせたあと、いつものように地べたに座り込み、白銀に輝く獣に向かって声をかけた。
相手もいつものように、こちらを見もしていない。
「……なんだろうな、それでテメーが他の動物に少しでも興味を持てるってんなら…いいことなんだろうが……」
だが、何故。
何故、俺の心は晴れない。
喉の奥につっかかって、飲み込むことも吐き出すことも出来ずにもやもやしているもの、その正体を掴むべく、動かない唇を無理に動かす。
「だろうが……だが…俺は、どうも……それが気に食わない、らしい」
ひくりと、ノリアキの耳が動いた気がした。
あるいは虫を追い払っただけか。
「大体テメー、年齢的には悪くないとはいえ…初めての繁殖だろ。なんつーか…あれだ、ちゃんと発情できんのか?こんだけ他の生き物には興味ねえって顔しといて、」
そこで言葉が詰まった。
いつもは俺が独白を始めてもどこ吹く風で宙を見ているユキヒョウが、いつの間にかこちらを―――それもはっきり俺の目を、見つめていた。
「………ノリ、」
きゅう、っと細められる眼。
ゆっくり体を起こした大型の肉食獣が落ち着いた足取りで近付いてくるのに、何故だか捕食される恐怖は感じなかった。
俺が微動だにしなかったのは、出来なかったのは、全く別の感覚に支配されていたからだ。
 

座り込んだ俺の胴体と床に着いた腕との隙間に、ユキヒョウのしなやかな体が潜り込んでくる。
自然、腕が持ち上がり、ノリアキの首筋へと手が滑る。
彼の緩慢な動きに導かれるまま、絹よりもビロードよりもすべやかな毛を、背中から尻尾の先まで撫で滑る。
低く小さく、唸るような、喉を鳴らすような音を耳が拾い上げ、背筋を何かが駆け上がる感覚を覚えた。
こいつ―――……。
自分の喉が鳴る音に、びくりと我を取り戻した。
無意識だった…目が離せなくなっていた。
「……俺は、人間だぜ」
真っ直ぐに俺を射抜く鶸色の瞳が、彼の体にまだらに散る暗褐色が、全てが全て俺を誘惑しているように見えて、だがそう見えるということは俺が……誘惑、されたがっているということだ。
筋肉と脂肪と、短毛と長毛と、白色と黒色と。
この上なく均整の取れた肉体が、余すところなく見せ付けるように、俺の眼前を闊歩する。
その中でも最も柔らかな、ふわふわと産毛のような白い毛が集まる臀部に目が吸い寄せられ、心地よい暖かさを手の平に感じてから、とうとう自分から触れてしまったことに気が付いた。
気が付いた、が、止められない。
彼のまだら模様から目が離せないように、ゆらゆら動く尻尾の付け根のその下を、撫で擦る手を離すことが出来ない。
適度に引き締まった彼の上半身が座り込んだ俺に寄りかかり、するりと縞模様が目の端を掠めた。
そこだけ別の生き物のように動くしなやかで長い尻尾が、俺の頬を伝い喉元に絡みつく。
先ほど腰から発生して脳天まで駆け上がった何かが、今度は明らかな重みを持って、下腹に居座った。
「ノリアキ…」
自分の声が上ずって掠れているのが滑稽だが、笑ってやる余裕が、今は無い。
がちりと聞きなれない音がして、背中の模様を追っていた目を無理に引き剥がし、ノリアキの顔を見れば。
俺の作業着のジッパーを壊そうとしているところだった。
「テメー…分かってやってやがる、な……。俺はオスだぜ…いいのか?」
応えるように、からかうように、ゆるく持ち上がったそこへ鼻先をこすり付けられる。
彼が壊すのに失敗したジッパーを開くと、詰めていた息がつい外へと吐き出された。
その息が熱く濡れているのに、ノリアキは満足げに舌なめずりした。
細めた眼が潤んでいて、透き通った瞳の奥が揺れているのが、ひどく綺麗だ。

 
 

前かがみになり、腰だけ高く持ち上げて、こちらを向く。
笑っているような気がするのは、もう気のせいではないんだろう。
表出した赤い、突起のある性器を扱いてやると、くるくると耳に心地よい声で鳴いた。
そのまま、そこだけ肉っぽい後孔へ、恐る恐る指を滑り込ませる。
ぐあ、という鳴き声に慌てて引き抜けば、後ろ足が抗議するように俺の腿を優しく蹴った。
傷だけは付けないよう、細心の注意を払って再度指を挿入し、ゆっくりゆっくり進めていく。
絡み付いてくる内部に導かれるまま、先ほどより、奥へ。
抵抗が少なくなってきたら二本目を入れる。
ノリアキは目を閉じて、浅い呼吸を繰り返していた。
その背を半ば圧し掛かるように抱きかかえ、二本の指を狭い体内で遊ばせた。
小声だが響く音でノリアキが溜め息を漏らす。
だがもう引き抜くことはしない、これは嫌悪や批難の声ではない。
もう大分待たされた自分は、数回擦っただけで液体を垂らしはじめた。
内壁がうごめいて、指を引き止めて離そうとしないのを何とか振り払って引き抜き、解されてひくつくそこに怒張を宛がった。
ノリアキが目線を投げて寄越す。
いいかと聞くより前に、来いと誘われていた。
自分で思うより余裕がなかったらしく、一気に奥まで貫いて、ノリアキが唸るのと同時に声が漏れた。
勢いに任せて、彼の脚の付け根を掴んだまま腰を打ちつける。
「ッ……ノリ、アキ…ノリアキ、っはぁ、…俺は、」
「ガ、ァァ…グルルル……クゥ…」
「ノリアキ、俺っ…俺、は、お前の…ことがッ…、好き、だったんだ」
牙を覗かせてノリアキが低く吼え、彼に包み込まれたまま、果てた。

 
 

そのままにしていた掃除道具を使って後片付けをする間、ノリアキは手を伸ばせば届く範囲に蹲り、ずっと俺を見ていた。
「…ノリアキ」
「ぐぅ?」
「今はまだ俺は、新入りも新入り、見習いでしかねえが…」
ふわりと跳ねた前髪のような毛の束を指先で遊ばせる。
ここはきっと、素直に触らせてくれるようになったところで切り落としはしないだろう。
「お前の面倒を、俺に見させてくれねえか。ずっと…一生」
俺の話す言葉の、単語そのものは理解はしていないのだろうが。
彼の目を真っ直ぐに見つめれば、その硝子よりも水よりも透き通る瞳の奥に、彼の心がはっきり写って見えることを知ったのだから。
お互いの首筋にお互いの鼻先を埋める挨拶を交わして。
証も無く、獣のように直感的に。
彼のまだらの模様に、将来を誓い合った。