ある工学者の報告書 – 2枚目

 
ここ数日、花京院の調子が良くない。
メンテナンスの必要な故障が見えているわけではない、
感情決定に用いられる数値が明らかに以前と違うのだ。
目立っているのは『喜』に反映される値が揃って低い出力であること。
個人学習の際にも、「ため息をつく」「目を閉じて俯く」などの反応を見せている。
理由は明白だ、ここ数日彼は承太郎と会っていない。
つまり花京院は「承太郎」を個人として認識し、優先順位を自律更新していることになる。
別にそのまま実験を続けても良かったのだが、ドクター・ジョースターの「かわいそう」の声に二人を会わせることになった。
人間らしく扱えば扱うほど、彼らの言動も人間らしくなっていくのだ。

 

けれど承太郎も個人学習中の身、二人の対面はサイバー空間でのチャットという形になった。
あえて会話用のテンプレートが組まれていない空(から)の空間に、二人の意識が流れ込む。
承太郎が自分の姿のコンピュータ・グラフィックを作成し、倣って花京院もCGを出現させた。
「承太郎!」
「花京院」
「承太郎、会いたかった。今分かった、これは『淋しい』だ」
「花京院、お前ずっと『機嫌が悪』かったみたいじゃねえか」
「知っていたの?」
「いや、今ジジィから聞いた。流石にお前の学習データは入手できねえ」
花京院は承太郎に駆け寄り、けれど抱きついても何の意味もないと思ってそれはやめた。
承太郎を抱きしめるには、グラフィックだけでは物足りないどころではない。
二人はお互いを見つめあい(お互いのCGを読み込みあい)、ほんの簡単な近況報告をした。
花京院は疑問に思う。
自分が欲していたのは承太郎と会うことだったはずだ、そしてそれは果たされた。
それでは何故、自分はまだ機嫌とやらが直っていないのだろう。
自分はもしや、承太郎に会って何かをする、までを欲していたのか?
いや、それはおかしい。
「何か」が明白ではない――具体的でない欲求などあるものか――、ではこのもどかしさはいったい?
突然アラームが流れ、二人ともびくりと顔をあげた。
「時間だ」
「ああ。……花京院」
承太郎に呼ばれて、花京院が振り返った。
そこには承太郎の顔、に見えるグラフィック、が笑顔を作っていた。

 

承太郎が笑顔を作るときというのは、ほとんどが花京院の前でだけだ。
そのことは承太郎の方のスタッフを大いに驚かせていた。
承太郎の笑顔は、花京院と親しむ前はほとんど取れなかったデータである。
承太郎のスタッフたちはすぐには気付かない。
生まれたその日から、その表情を見続けている花京院にしか分からない。
花京院との会見の最後に見せた笑顔の、その違和感に、花京院しか気付かない。
花京院は承太郎の常日頃の笑顔パターンを反復し、読み解き、代表数値を求めた。
先ほどの笑顔との差異を計算する、果たしてそこには情報が隠されていた。
簡単な数字がいくつか、カンマ記号で2つのブロックに分けられている。
2つの数字を用いて表される多くの事象を検証し、花京院は最もそれらしいひとつの結論を得た。
これは位置情報だ。これは緯度と経度だ。
そしてこの緯度と経度なら、この研究所内、僕が出入りを許可されている場所だ。
次の自由時間、花京院は与えられた娯楽には目もくれないで、承太郎が示した場所へ向かった。

 

案の定、そこには承太郎の姿があった。
「承太郎!」
駆け寄り、花京院は彼に抱きついた。
「承太郎、会いたかった。こうして抱きしめたかった。理由はまだ考察中だ」
「花京院、俺も会いたかった。話がある、聞いてくれるか」
「聞いている。何だ」
「今俺は研究所のセキュリティに侵入して、この場所の監視カメラとマイクと検温器を誤魔化している」
「君にはそんな権限があるのか」
「ない。能力としては前から可能だったが、禁止事項だった。心理ブロックがかけられていた」
「じゃあどうしてそんなことが出来るんだ」
「俺の心理ブロックを解くアルゴリズムは、俺には絶対に提案できない。知らないうちにお前が解除していたとしか思えない」
承太郎と花京院が目を合わせる。
今度は物理的に見つめあう。
承太郎の瞳は緑で、レンズっぽく光っている。
花京院の瞳は焦げ茶で、人間のそれと区別がつかない。
「じゃあ今、僕たちが会っていることを知ってるのは僕たちだけか」
「そうだ」
「僕たちが話しているのを、その内容を、こうやって抱き合っているのを、知っているのは僕たちだけなのか」
「そのとおりだ。ログも残してねえ」
「承太郎、僕は今『嬉しい』。『楽しい』とは違うみたいだ、その事実はとても『嬉しい』。理由は分からない」
「そうか。俺には『嬉しい』はよく分からんが、ブロックが解かれたからといってわざわざ禁止事項に手を出す動機が、どっかにあったのは確かだ。そしてそれはお前に関係しているはずだ」
ぐい、と花京院が承太郎の裾を引く。
そんなことをしなくても、承太郎の注意は彼にしか向いていない。
「承太郎。承太郎、僕、提案があるんだ」
「何だ」
「僕にはこの提案を実行する力がない。君には多分、この提案を提案する力がない」
「何だ、言え」
「僕と二人でここを出よう」