お犬さまと一緒 (1)犬を拾いました

 
しとしと降る雨、ダンボールの中で蹲る犬。
オマケに僕は傘と食料を持った独身男性であり、その上(借りたときは気にしていなかったが)ペット可のマンションに住んでいる。
シチュエーションは完璧だったが、ひとつだけケチをつけるなら、その犬が捨て犬にしては随分と成長していたことだ。
しかもお決まりの「哀れっぽい鳴き声」がない。
足を負傷しているようなのに、僕の存在にも勿論気付いているだろうに、無視を決め込んで丸くなっている。
ふさふさの黒い毛を持つ大きな犬だったが、流石に雨が寒いのか震えている。
どこかの金融会社のCMに出てくる犬のようにこっちを見てか細く鳴けばいいのに。
そうしたら僕は、そんな哀れな犬を捨て置く自分に対する自己嫌悪に浸りながら立ち去ることが出来るのに。
気が付いたら僕は、この生意気で美しい犬を抱えて獣医の下を訪れていた。

 
 

動物病院どころかペットショップも覗いたことの無い僕が一番初めに戸惑ったのは、診察カードの「ペットの名前」欄だった。
ちょっとの時間鉛筆を泳がせた僕は、最後にそこに「承太郎」と書いた。
以前、何かの資料で読んだ論文の執筆者の名前だ。
その(苗字も忘れた)承太郎氏と僕とが接触することはありえないので、まあ大丈夫だろう。
 

若い獣医は簡単な消毒をすると、看護士(と言うんだろうか)に包帯を巻かせて僕の方を向いた。
「怪我そのものはもう治りかけてます。化膿もしていないので一週間も安静にしていれば元気になるでしょう。それより」
ちらりと僕に恨みがましいような責めるような目線を寄越す。
「どうして怪我をしてすぐに連れてこなかったんです?傷は治るでしょうが、跡は一生残りますよ」
「今さっき、拾ったんですよ」
一瞬彼の目が開かれ、今度は誉めるとも貶すとも付かない表情になる。何なんだ。
「怪我をした可哀想な犬を放っておけなかったのは分かりますが、これからの面倒はどうするつもりですか?」
僕はなんだか分からないがムッとした。
この獣医は、僕が他人(それが負傷した犬であっても)にかけるべき憐憫の情などを持ち合わせてないのを知らないのだから、仕方はないのだが。
「勿論、僕が飼いますよ。あの犬が怪我をしようが挙句に捨てられようが僕には何の責任も無いので罪悪感もありませんが、一度拾ったからには最後まで面倒を見ます」
思ったよりきつい口調になってしまった。
僕が初めて荒げた声に犬が反応してこちらを向き、初めて目が合った。
その瞳は、黒っぽい緑の綺麗な色をしていた。

 
 

そして僕の部屋。
「さて、今日から君の名前は承太郎だ。怪我が治ったらこの部屋から出て行ってもらっても別に構わないが、最低でも一週間は安静にしていてもらう。そのためにはこの部屋で煩く吼えるとか暴れるとか、そういうのは禁止だからな」
犬相手に何を真剣に、と自分で自分に呆れたが、その相手は僕の目を見つめて話を聞いている、ように見える。
分かった、とでも言いたげに小さくくぅっと喉を鳴らした。
「ペットを飼う」ということ自体への面倒くささを想像して少し身構えていた僕だが、少々拍子抜けした。
とりあえず、とあの後急いで買ってきたドッグフードを承太郎へ差し出す。
お腹は減っているだろうに、彼は僕を見つめたまま動かない。
戸惑って色々考えてから、やっと思いついて「よし」と言ってみた。
そこで初めて承太郎は皿に齧り付く。
躾はしっかりしているらしい、なんだって捨てられたんだろう?
自分の分の夕食を準備しつつ、飼い主とはぐれただけなら探してやってもいい、と思っている自分に気が付いて、ちょっと驚いた。
 

シャワーを浴びて、承太郎は怪我をしていない場所をタオルで拭いてやって(そんな自分にまたびっくりだ)、さあ寝ようという段階になって気が付いた。
承太郎の寝る場所が無い。
僕の部屋はフローリングだから床に直接では寒いだろう。
先ほどのタオルを見やったがこれでは小さすぎる。
押入れに予備のブランケット類が入っているが、流石に引っ掻き回して取り出すのが面倒になってきた。
「……まあ、いいか。僕のベッドで寝るといい」
承太郎をベッドに招きいれ、僕は生まれて初めて自分以外の温もりを感じつつ眠った。
その温もりを思ったより心地よいと感じている、今日は承太郎のせいで(それとも、おかげで?)自分に驚きっぱなしだ。

 
 
 

目覚まし時計が鳴っている。
今日は休日だが、僕は毎日決まった時間に起きることにしている。
ふらふらと手を伸ばしてその音を止め、ベッドの中の違和感に気が付いた。
………ああ、そうか承太郎だ。
彼の心地よい毛並みに手を伸ばし、けれど僕が触ったのはつるりとした肌だった。
ん?
何かがおかしい、一気に目が覚めて顔を上げた。
 

「おう、起きたか」
 

僕の目の前にいたのは若い男。
黒い髪と綺麗な緑の目を持った美しく彫りの深い男で、……全裸だった。
そして僕は、その男の腰に腕を回している。
「うわ!うわっ!?」
「お前に尋ねたいことがいくつかあるが、その前に礼を言う…っておい、聞いてんのか」
「なっ何っ誰!?うわあああっけっ警察、」
「おい、落ち着け!」
全裸の男は僕の上に圧し掛かり、口を手で塞いだ。
あれっこれ僕やばいんじゃないの?
「まずは礼を言うぞ。助かった、治療代は必ず返す。それから俺は承太郎だ」
―――はい?
思い切り不審な顔をしていたのだろう、男は「ほれ」と言うとがっしりした足を僕に見せてきた。
その足には昨晩の犬と同じ傷跡があった。
残念ながら包帯はほどけてしまっているが。
「分かったな?じゃあ次はこっちの質問だ」
「ち・ちょっと待って、色々聞きたいのはこっちの方だ。君が承太郎だって!?」
「そうだ。そっちの困惑も分かるが、とりあえずひとつだけ答えてくれ。会話がしにくい」
自分を昨日の犬だと言い張る男は、無表情を崩さないまま(くそッなんだこの美形)詰め寄った。
まだ僕は彼の下にいるので、プレッシャーが半端じゃない。
「な、何だ?」
「俺の名は承太郎だ。なぜならお前が昨日、俺にその名を与えたからな。で、まだ聞いてなかった。お前の名は?」
そういえば昨日は名乗っていなかった。
相手は犬だったのだから当然といえば当然だが。
だが彼が人の言語で会話が出来るとなれば話は別だ。
そのきらきら光る緑の瞳を見つめながら、僕は名乗った。
「花京院。僕の名は花京院典明だ」