庭には海

お題「魚鱗」「ふわもこ」「彗星」

 

 

浅瀬である。
そこには水に浸かるようにして一件の家が建っている。
庭には背の低い海藻が揺らめいて、素足をくすぐる。
家の入り口は少しだけ高くなっていて、扉の開閉が水に遮られないようになっていた。
もっとも満潮の時にはそれも役に立たなくなるのだが。
家の中も外と同じように、くるぶしほどの高さまで海水が入り込んでいる。
家具はステンレスや陶器でできたものが主だが、中には木製のものもある。
空条承太郎は脱いだ靴を片手に持ち、ベルをからころ鳴らした。
果たして顔を見せたのは、旧友たる一人の男だ。
彼こそが花京院典明その人である。
彼は「いらっしゃい。」と言うと、来客をリビングへ通した。
「すまないね、こんな変わった家で。」
「いいや、何も問題ねえ。」
花京院は承太郎の手土産の焼き菓子を受け取ってテーブルに並べ、湯気の立つコーヒーのカップを持ってきた。
来訪に合わせて用意していたものだろう。
承太郎はありがたくそれを頂戴することにした。
手を伸ばす。
カップを持つ花京院の手に触れる。
それはつるりと濡れて、大きな水かきが付いている。
触られたことに、花京院は明らかに動揺していたが、気付かぬふりをしてカップを受け取った。
彼の淹れるコーヒーはいつもうまい。
海辺のこの家で飲むものも、砂漠で飲んだインスタントのそれも、全てがその時ちょうど飲みたい味をしていた。
この家では、大型の電化製品はどれも2階に置いてある。
ぱしゃぱしゃと水音を立てて階段を登り、時間になるまで映画を見て過ごすことにした。
今日は花京院の好きなB級ホラーではなく、レンタルショップで目のつくところに置いてあったロマンスものだ。
昨年かその前くらいに何かの賞を受賞していたような覚えがある。
それはある程度面白くある程度退屈で、水音を聞きながら二人共ほとんど夢の中にいた。
そこでは花京院は、昔の通り砂の上を歩ける足を持っている。
彼の体のどこにも魚の鱗はなく、明るい色をしたあの映画のようにきらきら光っている。
彼に手を取られて、承太郎は歩き出した。
花京院は軽やかに、踊るように歩いていく。
あんまり軽やかなものだから、彼はそのまま空中に足を置いて空に向かっていった。
手を引かれる承太郎も一緒に空を飛ぶ。
上の方までやってくると、そこは雲の群れの中である。
手を伸ばせは白い雲はふわりとしながらもしっかりした弾力を持っていた。
「まるでもこもこわたあめのようだろう。だけれど食べてはいけないよ。甘く見えるかもしれないが、本当は……」
ふわりふわり、もこもこもこ。
はっと気がつけば映画はもうエンドクレジットで、承太郎はふわふわした毛布に顔を押し付けていた。
「起きたかい?ああ、僕もさっきまで眠ってしまっていたよ。その毛布は舟に積んでくれ。夜は冷えるだろうから。」
彼の言うとおり、承太郎は用意していた小さなボートに毛布を積み込んだ。
花京院は水筒とビスケットの缶を持ってくる。
そうして二人で、夜の海に繰り出す。
暗く寒い海の上で、いっそ場違いなほど温かい毛布にくるまりながら、ぽつりぽつりと話をする。
遠い家族のこと、未だに続く因縁のこと、外国のこと、子供のこと、指輪を外した日のこと。
と、花京院が「そろそろじゃあないか?」と言った。
そこで二人共口を閉じて空を見上げる。
心地良い沈黙が数刻続き、どちらともなく「ああ。」とため息がこぼれる。
空には彗星、海には舟、彼の鱗はきらきら光る。
それを美しいと伝えたことはない。
彼の目にはいつだって悲しみが湛えられていて、そんな言葉ではそれを拭い去ることはできない。
だから承太郎は、何も言わずにただ、彼の待つ海辺の家を尋ねるだけだ。

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