わたしと悪魔 二、神学校の少年の場合

 
承太郎はすっかり道に迷っていた。
山向こうの教会までお遣いを頼まれて、それを果たしたはいいものの、帰り道で完全に森の中に迷い込んでしまっていた。
近道をしようとしたのが悪かったのか。
森の中には悪魔とその妻の魔女が住むという。
日が沈んでからも森の中をうろつく子供と言うのは格好の餌食だろう。
そんな思いが承太郎の足を速くした。
けれど駆けれども駆けれども、木々は深くなるばかり。
承太郎は焦っていた。
だから、不意に「どうしたの?」と声をかけられたとき、飛び上がらんばかりに驚いてしまったのも無理はないだろう。
振り向いてみれば、同じ年頃の子供のようだった。
ほっとしたのもつかの間、承太郎の目に飛び込んできたものは、一目では信じがたいものだった。
もじもじした様子の少年の額には小さな角が生えており、その下半身は毛に覆われ、足先には靴ではなく蹄があった。
くるんと丸かった尻尾も付いている。
これは悪魔か妖怪か。
ところが相手はそんな承太郎の心情など気が付かないようで、もう一度「どうしたの?道に迷ったの?」と聞いてきた。
その声が、あまりにも普通の少年のものだったから、承太郎はつい「ああ、そうなんだ」と答えていた。
山羊の目をした少年は、それを聞くと控えめに微笑んだ。
「このあたりは狼が出るんだよ。危ないから僕が出口まで案内してあげる」
そう言って承太郎の手を握る、その手があまりにまろやかで純粋で――承太郎はいつしか、警戒することを忘れていた。
森の出口に着いたのは、それから30分もしないうちだった。
少年は承太郎に笑いかけ、「じゃあね」と言った。
思わずその手を取ったのは、承太郎の方だった。
「また」と彼は口に出していた。
「また会えないか?」
「君が、そう望むなら」
そう少年は言った。
承太郎が森に通いつめるようになるのは、そう遠くない話だった。

 

角の生えた少年の名前は花京院といった。
花京院はずっとこの森に暮らしているようで、承太郎の語る町の話を喜んで聞いた。
「こんなところに住んでいて不便じゃあないか?」
と聞いてみたことがある。
少年は尻尾の先をもじもじ触りながら、
「姉さんや兄さんはもう出て行ったんだ。でも僕、末っ子だから。父さんも母さんも過保護でさ」
と答えた。
そういう花京院の姿も口ぶりも、そこらにいる子供のものと全く変わらない。
「そんなものなのか」
「承太郎には兄弟はいない?」
「いねえな、一人っ子だ。でもそういや、ポルナレフんとこも妹には甘いなあ」
そんなとりとめのないことを話しているうちに日は暮れる。
そしておしまいには、必ず明日も会おう、と小指を絡めあい、それで別れるのだ。
名残惜しさは二人とも感じていた。
だが何か行動を起こすには、二人とも子供すぎた。

 
 
 

先に拮抗を破ったのは、承太郎だった。
彼はある日、いつものように森の入口にやってくると、
「今日は夜遅くまでいられるぜ」
と言った。
理由を聞いてみれば、承太郎の父と母が遠くの教会に泊りがけで用事に出かけたのだという。
門限を破っても叱られないというわけだ。
花京院はそれを聞くと、尻尾を振って喜んだ。
そしてその勢いのまま、承太郎に口付けた。
驚いたのは承太郎である。
「なん…何だ、今の」
「何って、キスだよ」
「それは分かるが……口にキスするのは、大人になってからだって母さんが言ってたぞ」
「違うよ。好きな人になら口にキスしていいんだよ。承太郎、僕のこと…嫌い?」
上目遣いに見つめられてそんなことを言われて、首を縦に振れるわけがない。
承太郎は慌てて弁解した。
「いや、違う。俺はお前のことが…好きだ。さっきのは、なんていうか、びっくりしただけだ」
「そう?じゃあ、もう一回やっていい?」
「………ああ」
了承を取れたのもあって、今度はもっとゆっくりしたキスだった。
キスなんて親からしかされたことのない承太郎だから――それも頬にだ――ドギマギしてそれを受け入れるしかなかった。
承太郎が固まっていると、花京院は口を合わせたまま承太郎の唇をぺろりと舐めた。
今度こそ承太郎は飛び上がった。
「何、するんだ!」
「父さんと母さんはいつもしてるよ。…承太郎、今日暇なら、うちに泊まっていかない?父さんと母さんに紹介するよ」
それは唐突な提案に思われたが、自分の知らないことを花京院が知っているというのが悔しくて気が気でなかった承太郎は、すぐにそれを承諾した。

 

花京院の家は森の中、道なき道を行った一番奥にあった。
粗末と言うほどでないが、簡素な掘っ立て小屋だ。
「本当は父さんの故郷に大きい家があるんだけど、母さんには空気が合わないんだって。それでここに住んでるの」
花京院がそう言って扉を開ける。
中は黒を基調とした調度品がそろえてあって、外から見るよりは居心地は悪く無さそうに見えた。
花京院のために用意してあったパイを二人で食べ、談笑しているときに、それは来た。
ドシン、と何か大きなものが落ちたような音と衝撃。
花京院は眉をひそめた。
「父さんだ。でも機嫌がすごく悪いみたい。…承太郎、こっち来て!隠れよう。見つかったら殺されるかもしれない」
不穏な発言に、一も二もなく手を取られて引っ張られる。
隠れた先はベッドの下のスペースだった。
布が床まで垂れているから、一目では見つからない。
しばらくしたのち、扉が開く音がした。
次いで耳に飛び込んできたのは、「ぐす、ぐす…」という泣き声だった。
「母さんだ。誰かにいじめられたんだな。それで父さんが怒ってるんだ」
花京院が小声で囁く。
やがてその泣き声が大きくなり、…二人の隠れている寝室に入ってくる気配があった。
思わず二人とも、身を硬くして口を閉ざす。
「ぐす…ふぇ…ん、んぅ…じょー…、ん、は」
途切れ途切れの声が、時折くぐもりながら頭上から聞こえる。
そして――どさり、という音とともにベッドの上に誰かが倒れこんだ。
「じょ…やぁ…あう、あッ」
それから上で何が起こったのか、承太郎にはよく分からなかった。
ベッドがきしんで音を立て、泣き声が微妙に違う感じの声になり、そして……
「ガル!!」
野獣が吼えるような声が聞こえたかと思うと、不意にベッドの上の気配が消えた。
声も、音もだ。
そこで花京院がベッドの下から抜け出したので、承太郎はぎょっとした。
「おい、」
「大丈夫。二人とも、ちょっと違うところに行ったみたいだから」
「え?でも今まで、」
「いいから早くこっち来て!逃げ出すなら今しかない!」
その声に急かされ、承太郎もベッドの下から這い出した。
頭をめぐらせて確認してみると、確かにさっきまでいたはずの人影がどこにもない。
「承太郎、早く!」
と手を引かれて家から抜け出した。

 

どこにも逃げ場がないので、自然行き先は森の木立の中になる。
「なあ」
さっきの、と言いかけて止まった。
花京院が、その山羊のような瞳いっぱいに涙を浮かべていたからだ。
「おい、どうした」
「……ずるい」
何が、と聞く声はいきなり抱きついてきた花京院の勢いにかき消された。
「父さんと母さんばっかりずるい!僕だって承太郎とああいうことしたい!」
『ああいうこと』が分からず、戸惑う。
「ねえ、承太郎は?僕が相手だったら嫌?」
似たようなことを聞かれたな、と思い出した。
「なんだかよう分からんが、お前がしたいことだったら、嫌じゃあない」
「そう、じゃあ、承太郎……僕と一緒に寝て?」
「ここでか!?」
初めに出会ったとき、この森には狼が出るのだと、他ならぬ花京院が言っていた。
だが。
「あんなの嘘だよ」
花京院はさらりと言ってのけた。
「君に声をかけたくて、嘘をついたんだ。この森の獣は皆、父さんを怖がってるし、僕にも手は出さないよ」
「だが」
それ以上はキスによって封じられた。
まるで何もかも知っているかのように、ゆっくり体を横たえられる。
両手の指と指を絡めあい、体を重ねて花京院は承太郎に何度も何度もキスをした。
体が密着しているせいで、お互いの鼓動がよく分かった。
花京院の心臓は、承太郎のより少し速く打っていた。
「承太郎、気持ちいい?」
「分からん」
承太郎は素直に答えた。
花京院の目は熱に浮かされたかのようだった。
「僕は気持ちいいよ。ドキドキする」
「……そうか」
それから花京院は、承太郎の首の後ろ、星型のあざがあるところに小さな牙を立てた。
そうして二人は、夜が明けるまでずっと、木立の中で一緒にいた。

 
 
 

その跡に最初に気が付いたのは、教会の神父だった。
神父は承太郎のあざの上に残る歯形を見て、悪魔に憑かれたのだと声を荒げた。
承太郎の母親が、承太郎はいい子だからそんなはずはないと言っても無駄だった。
神父は、承太郎は修道院に入って性根を叩きなおしてもらうべきだと主張した。
承太郎は勿論反発した――そんなところに行ったら、もう花京院に会えなくなってしまう。
彼が反抗したのを、神父は悪魔憑きの証拠にした。
承太郎はそれでも、花京院が悪魔だなんて信じられなかった。
確かに花京院の角や蹄は山羊に似ているけれど、花がほころぶように笑うあの少年が、承太郎の魂欲しさに誘惑しただなんて考えられなかった。
承太郎を押さえつけようとする手を振り切って、森へと走る。
愛しの彼がいる森へ。

 

息を荒げた承太郎を迎えた花京院の瞳は、やっぱり何もかも分かっているようだった。
「承太郎、大人の人に怒られたんでしょ。お父さん?お母さん?」
「……神父だ」
ぎゅう、と尻尾を強く握る。
「承太郎、僕たちもう、会わないほうがいい」
「何故だ!?俺のことが嫌になったのか?神父に目を付けられたから?」
「違うよ!…違うよ」
言うと、花京院は承太郎に触れるだけのキスをした。
「僕も君が大好きさ。だけど、僕らはあまりにも子供だ――僕も父さんに止められたんだ。父さんは母さん以外の人間のことが嫌いなんだ」
その言葉で、彼の生まれが分かった。
だがそんなこと、承太郎にはどうでもよかった。
「僕は、初めて君を見たとき……森の中で迷っている君を見たときから、君のことが好きだった。だから、無意識に誘惑のまじないを使っていたのかもしれない」
「………分かった。じゃあ」
承太郎は花京院の肩をつかんだ。
そして真っ向から彼を見つめた。
その瞳の強さに、花京院が怯んだほどだった。
「俺は修道院に行く。そこで悪魔落としをしてもらう。それでもお前のことが好きなら――『本当に好き』として迎えに来ていいか」
その言葉に、花京院は思わず承太郎に抱きついた。
「うん…うん、待ってる。ずっと待ってる。僕も父さんのところを出て行けるように修行するよ。そしたら二人で、好きなところに行こう」
それは子供の口約束だった。
守られる保障なんてどこにもなかった。
けれど二人とも、この約束が何年もの間、自分の支えになることは分かっていた。

 
 
 

10年後、一人の僧侶がこの森を訪れる。
立派な角の悪魔は、花が咲くような笑顔を浮かべて彼の元へと駆け寄るだろう。