花京院市について 1.********

 
花京院という都市がある。
人口は増えもせず減りもせず一定を保ち、自給自足率が非常に高いながらも科学的である、“モデルシティ”だ。
この都市には、まさにこの都市と同じ名前を持つ一つの存在がある。
それは一般には都市とは別個のものとされるが、根本的には同一である。
前述したようにそれの名は「花京院」という。
果たしてそれの実体は、中枢管理機構と呼ばれるものだ。
「花京院」は花京院の政治、経済、文化全てを担い、ここに暮らす人々を『管理』している。
この花京院のため、人々は安全に、平和に、文化的に、そして豊かに日々を送っている。
花京院が正式に起動してからの5年、この都市の犯罪件数は実に0件をキープし続けている。
殺人等の重犯罪どころか、泥酔のための喧嘩やゴミのポイ捨てすら起こってはいない。
これを集団催眠による洗脳だという者、あるいは住民が違法な手術を受けているのだと書きたてたジャーナリストすらいた。
だがスポークスマンの対応は冷静なものだった。
道に溢れる植物、心地よい音楽、円満な経済状況、健全で充実した娯楽、花京院はこれらを提供する。
全てが適材適所となるよう配置する、それが花京院による『管理』なのだと。
この衛生的な都市では、数少ない病死と寿命による死以外は、ごくごく低い確率でしか起こらない天災による死しかない。

 

……勿論、「花京院」を意のままに動かせる開発者は、膨大な権力を手にすることになる。
そこで開発に当たっては、ここの開発者たちが、自分の担当部分以外の情報は、たとえ実験器具の色であっても知ることがないよう徹底された。
唯一の例外が、プロジェクトの全貌を見渡す必要のある、リーダー格の研究者だった。
中枢管理機構の提唱者でもあるこの人物は、政府の入念な調査の末その権限が認められた。
いわく、彼は生粋の研究者である。
彼の興味は機構の開発および保守のみに向けられており、金も名誉も、その他の何にも関心がない。
その研究者は、花京院市に妻とともに住み、中枢管理機構のメンテナンスとエンハンスを行っていた。
過去形であるのは、もう保守をやっていないから、ではない。
彼の妻がごく稀にしか起こらない偶然の天災で亡くなったからだ。
独り身に戻ってからというもの、彼は機構にアクセスできる部屋に閉じこもりがちになり、ますます研究開発に没頭するようになった。
中枢管理機構「花京院」は学習をするシステムである。
研究者によると、花京院は今現在“思春期”らしい。
普段、数件の言葉や事象を覚えてはそれらを検証・実践して身に着けていく花京院が、あるとき新しい概念に辿り着き、それに紐付く数多くの言葉を学習しはじめるタイミングがある。
今がまさにそれで、特に「恋愛」や「結婚制度」などに興味があるのだという。

 

そして今日もまた、定期メンテナンスのログを読む研究者の後ろに立つ影が一つ。
それは「やあ、承太郎。」と声をかけた。
研究者が振り向けばそこには、赤毛の年若い青年が立っている。
実は彼、いや、これは中枢管理機構が人間と自然に対話するために作られた、交流用インターフェイスなのである。
勿論その本体は都市の中央――詳しい場所は極秘だが――に設置された巨大な装置であり、この人型のインターフェイスは本体によってリモートコントロールされている人形にすぎないのだが、見た目や言動があまりにも自然なので人間にしか見えない。
花京院は人間と関わることが必要な学習には、このインターフェイスを用いていた。
町に出ることもあれば、企画をして学校などに赴くこともあった。
だが彼にとって、一番近い人間はこの研究者である。
彼は研究者を見上げてこう言った。
「承太郎、君とキスがしたい。昨日してくれたのより、もっと意味の深い『恋人のキス』というものがあると知ったんだ。」
研究者が、例外もあるが感触を研ぎ澄ますために目を閉じることが多いのだと教えると、彼はまぶた――の機能を果たすシリコン材――を下ろした。
うっすら開かれた口からは、赤く濡れた舌が覗いている。
対話者が自然に振舞えるよう、人間のそれに見た目をなるべく近付けてあるのだ。
表面の素材の下には感覚器が張り巡らされているので、触覚もある。
何らかの方法で味覚に代わる機能も実現させるべきだろうか、そんなことを考えながら研究者は唇を深く重ね合わせ、自分の舌を絡ませた。

 
 
 

花京院は一字一句用意してから出力するので、会話の最後に「。」がつくんだけど、考えながら喋る人間はそうでもない。