鉄獄より愛をこめて 1F

”それは冒険者を食料ぐらいにしか考えていない。”

花京院は片手を高く上げて本日三度目の食糧生成の呪文を唱えた。とはいえダンジョンに光は一切入ってこないから、おそらく「本日」ではないのだろうが。

疲労の影響か、魔法は一度失敗した。花京院は注意深くあたりを見回して、今の呪文を聞きつけてやってくる者たち――動く肉の塊とか、口から炎を垂らす犬とか、体内に爆弾を仕掛けられたイークとか――がいないか確認した。それから残りMPをチェックして、もう一度手を上げ呪文を唱える。
今度は成功したようで、生まれでた食料がダンジョンの床にぽとりと落ちた。それはぎゅっと固めたパンを何年か寝かせておいたような感じのもので、ちょっとカビっぽい臭いがするし、正直あまりおいしくはないのだが、腹は十分満たされる。
花京院はそいつを拾って咀嚼しながら、軽くなったザックを見つめてため息をついた。

花京院はハーフエルフメイジである。ハーフエルフというのは、エルフと人間の混血のことだ。あまりたくさんはいないが、そう珍しい方でもない。
メイジというのはいわゆる魔法使いである。花京院が扱う魔法領域自然の領域カオスの領域だ。つまり、探索系の魔法と混沌系の攻撃魔法が得意だということだ。
まあ、ここでは魔法領域の名前とかはどうでもいい。
今大事なのは、花京院がとあるダンジョンに潜っていて、そして帰還のロッドが壊されてしまったということである。とても困ったことになった。食糧生成の魔法があるからすぐ死ぬことはないだろうが……。
しかしこの世界、ほんの少しも甘くはない。死んだらそこで終わりである。セーブ地点からやり直せるなんて親切設計は一切ない。花京院はそろそろと歩き出した。慎重に、ちょくちょくモンスター感知の魔法を唱えながら、である。その感知に、何かの気配が引っかかった。
耳を澄ませていると、ヌシヌシという足音も聞こえてきた。どうやら気配を隠すのがあまり得意でない、体のでかいモンスターらしい。ゴーレムか何かだろうか?
じっと息を潜めていると――花京院の方は気配を消すのがうまいので――通路の暗がりから、大きな黒いものが姿を現した。
あ、これはヤバい。
花京院の頭の中でアラートがビービー音を立てた。姿を見せたのは、一匹の巨大なバルログだった。身の丈3メートル以上はありそうだ。
真っ黒い体に、腕や足など筋肉に沿って白っぽく光る線がいくつか走っている。角の生えた頭についているのは、印象的な緑の瞳だ。現実逃避をして逆に相手のことをじっくり観察してしまうほど、花京院は焦っていた。
バルログというのは、高位の悪魔の一種である。姿こそ二足歩行の人型であるが、その禍々しさは人間の比ではない。しかもやつらは、人間だとかエルフだとかホビットだとか、そういう生物を食料としているのだ。ハーフエルフの自分は、つまり。
花京院はそっと身を引いて逃げようとした。
カチリ。
足の下で何やら音がして、そこから小さなダーツがいくつか飛んできた。それらをかわすことには成功したものの……花京院はたたらを踏んで通路から部屋へと入ることになってしまった。そう、先ほどのバルログがいる部屋に。
バルログは花京院を目に留めて、面倒くさそうな顔をした。脇に抱えていた魔法書を開く。ヤバいやつやあかんこれ。
バルログの動作はあまり素早いものではなかったから、花京院の方が先に自分の魔法書を開くことができた。テレポートの呪文を唱えようとして、さっと青ざめる。
食糧生成、モンスター感知、そんなものにMPを使いすぎて、テレポートを唱えるだけの精神力が残っていない!
慌ててザックに手を突っ込み、ショートテレポートの巻物を取り出して読み上げた。次の瞬間、花京院は何やら硬いものに頬を押し付けていた。
……バルログの胸だ。ショートテレポートは成功し、そして、花京院はバルログの腕の中にいる。
「!?」
「……!?」
バルログは更に顔をしかめて本を閉じた。それはそうだろう、この距離で魔法を使えば自分も巻き添えを食らう。それで彼は、肩に背負っていた斧に手を伸ばした。
ヤバい、死ぬ。ここはもう、あれしかない。
「待ってください!! 命ばかりはお助けを!! 有り金全部置いていきますから!!」
花京院はなりふり構わず命乞いをした。この、有り金全部というのは、一見意味がないように聞こえる。殺してしまえば結局、有り金は全部手に入るように思えるからだ。
だがしかし、そうではない。冒険者の手持ちは、ザックの中のものが全てではない。身に着けている装備品にこそ、一番金をかけているのだ。だから、殺す過程でそれらが駄目になるのは避けたいところなのである。金を求めている者にとっては。
……経験値を求めている者にとっては、また違うわけだが。だがこのバルログは、そっちのタイプではなかったようだ。
「何だお前、俺に危害を加えるつもりはねえのか」
「ないです! まったく! 一切! 僕はもうHPもMPも、それからアイテムも尽きかけてる状況なんです。バルログと戦うなんて冗談じゃないです。あなたは……あなたは僕を食べたいかもしれませんが」
「いいや」
バルログは自分のザックを――明らかに人間のサイズのものが入っている――ちらと見やった。
「食料は間に合ってる」
「そ、そうですか」
花京院としては、早々にこのバルログの元から立ち去りたかったのだが、でかくてごついバルログの腕の中にいるものだから、身動きが取れずにいた。
「だがしかし、確かにお前はいい匂いがするな」
「ヒッ!?」
このまま頭からバリバリと、というのを想像して身を硬くする。が、バルログはくつくつ笑うだけだった。
「冗談だ、殺しゃしねえよ。いたずらに持ち運ぶ死体増やしたって、ザックを圧迫するだけだ。てめー、そんな状況でどうして帰らねえ?」
「あー……」
花京院は目を泳がせたが、やがて観念したようにため息をついた。
「帰還のロッドを壊されました……」
「プッ」
今度こそバルログは思い切り吹き出して笑った。
「マヌケだな」
「う、うるさいな! マヌケだなんて自分が一番分かってます!」
「ハハ、そうだろうな。どうだ、俺と一緒に来るか?」
「えッ!?」
「もっと潜るつもりだから、すぐには帰してやれねえが。一人でMPの自転車やるよりいいだろ」
「え、…どうして……?」
「さあな、どうしてそんな気分になったのか、そこんとこだが俺にもよう分からん。……非常食ってとこか?」
バルログはニヤリと笑った。花京院は非常食だなんて言われて黙っていられるタイプではなかったが、バルログの笑った表情が、なんというかあまりにもカッコよかったものだから、「ぐぅ」と唸るだけで何も言えなかった。
「お前メイジだろ。補助領域は?」
「自然だ」
「そりゃあいい。しっかり働けよ」
花京院はふと、この力関係は悪くないのかも、と思った。チームでダンジョンを潜る冒険者など聞いたこともない。
それは、自分以外に信用できるものは誰もいないという単純明快な理由によるものだ。いつ寝首をかかれるか分かったもんじゃないし、そうでなくとも、戦闘の分担、戦利品の分配、食料、買い物……お互いが納得できる冒険なんてありはしない。それよりは身一つ、自分だけの力で進む方がよっぽどいい。
けれど、このように上下関係がはっきりしていれば、自分は彼に逆らうことはできないし、彼だっていつでも殺せる便利なしもべを、わざわざ今殺すこともないだろう。
そうして彼らは、二人一緒にダンジョンを進むことになったのだ。