悪魔と取引した話

「よう。俺は悪魔なんだが、取引したくねえか?」
 学校からの帰り道、知らない大人に声をかけられて、花京院少年は立ち止まった。そういう場合、話を聞いてはいけないと、小学校では散々口を酸っぱくして言われていたけれど、それでも花京院が足を止めてしまったのは、その人がもうびっくりするくらい綺麗だったからだ。
 確かにかっこよくもあったのだが、それよりも綺麗だ、と思った。何せ、これ以上ないほど整った顔、つやつやとした黒髪、がっしりした大柄な体格、そして緑色に燃える瞳をしていたのだから。男の人にそんな感想を持つなんて初めてで、花京院はつい彼の話に耳を傾けてしまった。
「悪魔?」
「ああ。何でもお前の願いを叶えてやるぜ」
「なんでも? ほんとうに?」
「本当だ。普通だったら不可能なことが、何でもできる。何が欲しい?」
「えー、じゃあ永遠の命。不死身! できるの?」
 花京院は半分冗談でそう言った。許して欲しい、小学校低学年の男子に思いつく『普通だったら不可能なこと』なんて、その程度しかなかったのだ。ところが悪魔は、美しい顔を歪めて笑った。
「不死身だな。いいぜ、その代わり死後のお前の魂をもらう。それでいいか?」
「えっ? え、まって……」
 花京院は少々混乱した。この人は本当に、僕を不死身にできるのだろうか? 待てよ、お話の中の不死身といえば。
「で、でも、おじいさんになってから死ねないとか、そういうのはだめだよ! えっと、そうだな、十七歳くらいのままで、けがとかもすぐ治るの! どうなの?」
「もちろんできるぜ。で? この取引、受けるのか?」
「えっと……」
 花京院は必死で考えた。この人、なんて言った? 死後の魂、だっけ? でも待てよ、不死身になるんだったら死なないから、それは防げるんじゃあないか? もしかしてこの人、それに気付いてない? 花京院は心臓がドキドキしてきた。
「えっと、ほんとうに死ななくなるの?」
「ああ。老いも病気も怪我も、そしてあらゆる人や動物も、お前を殺すことはできない。だが、ま、俺は優しいからな。自殺だけはセーフにしてやるぜ。お前が自分で死にたいと思ったら、そこで死ぬことはできる」
「そ、そうなんだ」
 花京院は体が少し震えているのを感じた。それって、すごく得な取引なんじゃあないか?
「その取引って、ほんとうに、落とし穴とかないの? あなたが何かかくしているとか」
「ないない。お前が自分で死にたいと思ったときに死んで、それから俺がお前の魂をいただく。そういう取り決めだ。どうだ?」
「わ、わかりました。それで大丈夫です」
「オーケイ、それじゃあ、お前は今日から不死身だ。ビルの屋上から飛び降りてみてもいい」
 悪魔はニッと笑うと、そのまま跡形もなく消えてなくなった。花京院は今自分が見たものが現実だったのか夢まぼろしだったのか、分からなかった。 

 花京院は成長していくにつれ、幼い頃に出会った悪魔について忘れていった。21世紀の日本の中流家庭で普通に生活していて、死にかけることはそうそうないからだ。それに、遊んでいて怪我をすることも、季節の変わり目に風邪をひくことも、しばしばあることだった。どちらもすぐ回復するのだが、まったく起こらないわけではなかったので、自身が不死身だなんてこと、すっかり忘れてしまっていたのだ。
 それを実感したのは、中学に入ってすぐのことだった。まあ簡単にいえば、ひどい交通事故にあったが生き延びた。そういうことだ。
 花京院の地元はそこそこの田舎で、彼の通学路は道中、畑の間を通るところがあった。そこから住宅街に入るところが、いきなり建物が増えて視界が悪くなっているのである。
 花京院はある日、そこを歩いていた。その彼の元へ、居眠り運転をしていた自動車が突っ込んできた。それは花京院にモロにぶつかり、男子中学生の細い体は吹き飛んだ。即死であった、はずだが、彼はすぐに目を覚ました。以上が事の顛末だ。まあここを丁寧に描写しても仕方あるまい、あまり楽しくない事故だったのだから。
 花京院は自動車に接触されて体を強く打ち、気絶した。目を覚ましたとき、彼は病院のベッドの上にいた。ベッド脇では母親が泣いていたが、花京院が目覚めたことに気が付いて、心からの抱擁をくれた。
 それから花京院は、医者も驚くほどの回復力を見せ、数日で退院できることになった。本来なら死んでいたはず、という言葉は何度も聞いた。骨にも内臓にも異常が残っていない、奇跡に近いということも。そういったことを言われるたびに、花京院の心臓はドクドクと鳴った。本当なら死んでいるような事故だった。それなのにピンピンしている。これはつまり。
「夢でも何でもなかっただろう?」
 花京院ははっとして顔を上げた。場所は花京院の病室、個室ではないけれど、そのときはちょうど他の患者たちがいなくて、親も退院の準備に席を外していた。
 そんな花京院の、ベッドの横の窓に、いつの間にか座っている人物がいた。あの、悪魔だ。黒い裾の長い服を着て、緑色の瞳を楽しそうに光らせている。
「今回の……事故は……」
「事故が起こったこと自体は偶然だ。その死を回避したのは、俺との取引の結果だがな」
「この事故の後遺症、あるいは死を回避したことによる影響は?」
「そんなもん、ないに決まってるだろ。安心しろよ花京院。お前は決して死ぬことはない。屋上から飛び降りてみたか?」
「そんなことはしてない」
「死のう、と思いさえしなければ、何百階から落ちても死なねえよ。骨折くらいはするかもしれねえが、すぐ治るだろう」
「さすがにそれを試す度胸はないよ」
「今はまだ、な」
 悪魔は何やら意味深なことを言った。途端ぶわりと強風が吹き込み、花京院は思わず目を閉じた。もう一度開いたとき、そこにはもう誰もいなかった。

 花京院が次に悪魔と出会ったのは、高校生の頃、十七の誕生日の夜であった。母親がケーキを焼いてくれて、いつもよりちょっといいごちそうを食べて、さあ寝ようと思って自室に入り、電気のスイッチを付けたら、そこに悪魔がいたのだ。花京院の部屋の机の上に、あろうことかワインの瓶を置いて、一人で酒盛りしている。
「よう、邪魔してるぜ。誕生日おめでとう、花京院」
「ありがとう。何してるんだ」
「お前の人生の記念となる日だ。お祝いしてやるぜ。1907年物のワインだ。飲めよ」
「僕は未成年だからお酒は飲めない」
「おいおい、冗談きついぜ!」
 悪魔は心底愉快そうに笑った。
「おめーはこれから一生、自分で死にたいと思うその日まで、ずっと未成年なんだぜ。今飲もうが三年後に飲もうが変わんねえよ」
「僕の気持ちが変わるよ」
 花京院は悪魔を無視してベッドに潜り込んだ。顔まで布団の中に引っ込める。
「もう眠るのか?」
「いつもはもう少し起きてるけど、今日はもう眠りたい気分だ。誰かさんのおかげでね。もう帰ってくれないか?」
「つれないやつだな。いいぜ、これからが長いんだ。誕生日おめでとう花京院、そしてようこそ」
 悪魔の最後のセリフの意味が分からなくて、花京院は布団の中から顔を出した。けれどもそこには、悪魔の影も形もなかった。1907年物だとかいうワインは、お祝いのつもりなのだろうか、置きっ放しであったけれども。

 それから花京院は、受験勉強を経て大学生になった。花京院は日本の高校生にしてはかなり背が高く体格もいい方であったのだが、十七になった直後からぴたりと成長が止まり、身長も体重もまったく変化しなくなった。大学に入って周りを見回して、成長期が早くて本当によかった、と花京院は心から思った。
 大学には花京院より小柄な男や童顔のものもいて、そうたいして浮くことはなかった。ちらほら二十歳を過ぎるものが現れる年でも、まだ問題はなかった。花京院の二十歳の誕生日にも、周りは素直なお祝いの言葉をかけてくれた。
 花京院はその頃には大学の近くで一人暮らしをしていて、そこそこ仲の良い何人かの友人がセッティングしてくれた飲み会(残念ながら男ばかりだったが)で初めてアルコールを口にした。心苦しかったけれども、花京院は二次会への誘いを断って帰宅することにした。すっかり出来上がっていた友人たちは特に気を悪くすることもなく、次の店に向かっていった。花京院には確信があったのだ。
 花京院が小さなアパートに帰り着いてワンルームの扉を開けると、果たしてそこには例の悪魔がいた。
「よう、遅かったな」
「これでも早めに切り上げて帰ってきたんだ。君が来ていると思って」
「俺のために帰ってきたのか? そいつぁ光栄だな」
 悪魔は笑って、ちゃぶ台の向かいに座るよう花京院に促した。花京院の部屋であるのだけれど。
 悪魔は既にワインを開けていた。何やら飾りのついた、年代物らしきゴブレットでそれを飲んでいる。花京院もあの、1907年物のワインを取り出してきた。悪魔は軽く目を見開いた。
「まだあったのか、それ」
「このワインには申し訳ないことをしたけれど、飲むこともできなかったし、こんなもの人にあげるわけにもいかなかったしね。まあすっかり酸化してしまっているだろうから、眺めるだけになるだろうけど」
「いや、おい、それを開けたことはなかったのか? ただの一度も?」
「そうだよ。君が戯れにコルクを挿し直したそのままさ」
「そいつはいい。だったらその中身は、時が止まっているはずだ。まだ飲めるぜ」
「そうなのか?」
「ああ。こっちのと飲み比べをしよう。まあ座れよ」
 そういうわけで花京院と悪魔は、古いアパートの古いワンルームで上等なワインを飲んだ。花京院にはまだワインの良し悪しなどは分からなかったが。夕方から酒が続いていたので、慣れない花京院の目はしばらくするととろりとしてきた。
「ああ、これ、きっとこういうのをおいしいワインっていうんだろうな。君、……ええと、君、名前はなんていうんだい」
「承太郎だ」
「承太郎、君、どうして僕に……こんなにしてくれるんだ……」
「俺はおめーのために何かをしたことは一度たりともないんだぜ、花京院。全ては自分のためだ。それにしたって、本当に俺のためとしか言えないような願い事をしてくれたもんだぜ。なんせおめーは……なんだ、花京院、眠っちまったのか?」

 花京院が生まれつきの背の高さでごまかすことができたのは、精々が大学までだった。花京院は大学卒業後、まあまあ大きな会社に入り、パソコンとにらめっこしあうような職に就いた。入って数年はまだよかったのだ。二十代の半ばになったとき、周りが一気に老けだした。老人らしくなったというわけではない。肌に艶がなくなり、髪に白髪がまじり始めたものもいて、花京院の若さがただの若作りでは済まなくなってきた。
 あるときトイレに入ろうとして、中にいた人が自分の噂をしているのを耳にしてしまったことがある。
「花京院って若いよな。若すぎるっつーか」
「分かる。子供っぽいわけじゃないんだけど、学生って言っても通じるよな」
「あの年齢であれはちょっと、気持ち悪いレベル」
 花京院はその言葉を聞いて、会社を辞めることに決めた。
 親とも顔を合わせづらくなってきた。昔の友人などもってのほかだ。花京院は地元を遠く離れたところに引っ越し、電話と手紙だけで親と連絡を取るようにした。花京院は本やインターネットを駆使して映画用のメイクアップの技術を学び、自分の実年齢を知っている人間の前に行くときは、顔に老けた化粧を施すようになった。
 困るのは、身分証明書が必要な場面だ。高く見積もっても二十代前半にしか見えないのに、身分証明書に載っている生年月日がずいぶんと古いのだ。病院に行かなくてもいいよう健康に気を使い、役所へ行くような用事ができないように気をつけた。酒は通販で買うようにし、選挙はサボった。
 問題は仕事である。花京院は会社で働くことを諦め、在宅で働ける方法を探した。とはいっても、特にツテがあるわけではない在宅ワーカーには、仕事を得るのは難しい。花京院は在宅ライター兼プログラマー兼デザイナー兼翻訳家のような、よく分からない人物になっていった。こういうものは、すべて成果に対してのみ報酬が出る。昇格といったシステムはない。まあ『老後の蓄え』が不要な分は気持ちが楽であったが。
 花京院はもう、五十歳になっていた。

 花京院はある日、未だに狭いアパートで古い映画を見ていた。クラシックなタイプの吸血鬼が出てくるやつだ。ダークな衣装とダークな雰囲気を身にまとったヴァンパイアが、美女の上に覆いかぶさる。
「彼らはいったいどうやって生活しているんだろう? 僕なんか、一処に何年も住み続けることさえできないのに。お城まで持っているじゃあないか。ああいうのって、維持費が大変なんだろう」
「そりゃあ相手はファンタジーの登場人物だからな」
 いつの間にやら、花京院の隣には承太郎がいた。ムカつくことにポップコーンを食べながら映画を楽しんでいる。
「どうだ? なかなか生きるのが大変になってきたんじゃあないか?」
「まあね。現代日本は社会システムがかなりしっかりしているから、逆に生きづらいよ。三十年前より、十年前よりどんどん整ってきてるし。この間、といっても数年前だけど、父親が病死したんだ」
「それはそれは」
「葬式は本当に大変だった。分厚いメイクをして髪をグレーに染めて、バレないかヒヤヒヤしていたものだから、心から悲しめたのは終わってからだった」
「そういやお前、子供は作らないのか?」
「ハァ? ふざけているのか?」
 花京院は声を荒げて承太郎の顔を見た。彼はニヤニヤ笑っている。どうやら本当にふざけているようだ。
「お前の子供だったらかわいいだろうな。もし生まれたら、お祝いに何か取引してやるぜ」
「だったら永遠の命なんか欲しがるものじゃないって教えるよ」
「もう死にたくなったのか?」
「まさか!」
 花京院は悪魔の甘言を鼻で笑って、テレビの画面に目を戻した。映画は既にクライマックス、善なる人々が不死身の化物を追い詰めるところであった。
「君みたいな悪魔に屈するものか。僕は絶対に死んだりしない」

 高度に文明化された管理社会にいられなくなった花京院は、ライフスタイルを変えることにした。とりあえずラジオ番組を利用して英語と中国語を学び、日本を出た。部屋を借りるのに金だけしか必要ないような地域を回って、日雇いの仕事を受けながら生活することにしたのだ。
 当然ながら、初めはとても苦労した。そもそも食べ物や飲み物が合わず、腹をこわすこともしょっちゅうだった。物騒な事件に巻き込まれたことも、一度や二度ではない。殺されそうになったことも、いや殺されたこともあった。何も人から恨みを買ったわけではない。強盗とか通り魔とか、そういうたぐいのものに出会ってしまっただけだ。
 そういったとき、花京院はすぐに引っ越すことにしていた。あらぬ疑いをかけられる前に逃げるのが吉だ。不死身だなんてこと、誰にも知られるわけにはいかない。そうしてあちらこちらを旅して回っているうちに、花京院の年齢はとうとう三桁になろうとしていた。
 そんなふうに過ごしていれば、だんだんに月日の感覚がなくなっていくものである。だが花京院は、カレンダーにはいつも気をつけていた。自分の年はいつも忘れそうになるので、手帳に書きつけている。一時期は電子タブレットも利用していたが、結局紙と鉛筆に頼るのが一番だと分かった。
 さて、そんな花京院の記念すべき百回目の誕生日の晩、彼は小さな酒場の奥まった席にいた。安っぽいグラスで安っぽいポートワインをあおり、そのグラスをテーブルの上に置き直したとき、いつの間にか隣にはあの悪魔がいた。
「やあ、承太郎。来てくれると思っていたよ」
「ずいぶん落ちぶれたもんだな、花京院?」
「生まれを明かせない人間が就ける職なんて限られているからね。でも僕は、薄暗いことには一切手を付けていないよ。それに今は、節約してお金を貯めている最中なんだ」
「へえ、何か買うのか?」
「それはまだ秘密だ。それで? 僕はこのワイン、一杯しか頼んでないのだけれど」
「持ってきたぜ。この店の売上にゃならねえけどな」
「見つかったら叩き出されるだろうけど、店の主人も客も、僕らに注意なんか払わないよ。そんなお上品な店じゃあないさ」
 言う通り、店の中はザワザワと騒がしく、誰も隅の席など気にも留めていないようだった。承太郎はまたしても、いいワインを持ってきてくれたようだった。今では花京院もワインの味が分かるようになり、年代物のそれを二人でゆっくり楽しんだ。
「百歳の誕生日おめでとう、花京院。もう生きるのにも飽きてきたんじゃねえか?」
「ありがとう、承太郎。まさかだろ、僕はまだまだ生きるつもりだよ!」
 花京院はそう言って笑うと、グラスの中のワインを飲み干した。

 花京院の趣味は一つきりではない。ありとあらゆる……ほどではないが、個人でできる趣味なら一通りやった。四十代の頃ハマっていたのは絵を描くことだったのだが、国をまたいで引っ越しするときにすべて処分してしまった。
 絵を見ることは、年々楽しくなってきている。花京院の体も頭も若いままで、昔見た絵を思い出すことは難しくない。頭の中のデータベースがどんどん豊かになっていくので、絵画や映画や音楽を鑑賞する楽しみが飛躍的に伸びていっているのだ。それに。
「こんな絵が好きなのか?」
「入ったところにあった絵の方が好きかな。これもなかなかいいと思うけど」
 花京院はこの美術館には一人で来ていた。けれど帰るときは二人だった。この数十年、承太郎が花京院の元を訪れる頻度が徐々に上がっていた。一度、「暇なのか?」と聞いてみたことがある。だが承太郎は笑って、
「なに、おめーもそろそろ死にたくなってきたんじゃないかと思ってな」
と言うばかりだった。花京院も笑い返し、
「何度も言うけど、その日は永遠に来ないよ。僕が持っているのは永遠の命だからね」
と言った。承太郎はその返答に顔をしかめることすらせず、やっぱり笑っていた。
「そりゃあ、そういう取引だったからな。俺だって何もズルはしていない。『永遠』の定義だって、おめーと一緒だ。……あのときはな。これから変わるかもしれないが」
「どういうことだ?」
「気にするな。とにかく、この『永遠』には、おめーが死にたくなったとき以外に終わりはねえよ」
「それはよかった」

 百五十歳の誕生日に、花京院は辺境の国の辺境の地に城を買った。今にも崩れそうな、隙間風の吹き込む小さな城だったが、城は城だ。二束三文で売られていた理由の一つに『出る』というのがあったが、噂の幽霊は越してきた花京院を見るなり嫌そうに顔をしかめて消え去った。どうやら悪魔憑きは駄目らしい。
 花京院はそこで、自給自足の生活を始めた。電気と水道だけは引かなければならなかったが(ガスはもうどの国でもほとんど使われていない)、銀行口座を持てないので、集金の係員とは顔を合わせなければならない。けれどそれ以外ではなるべく外出を避け、人前に出ないようにした。自然、彼の話し相手は悪魔だけになった。城の中庭で花京院とチェスを指しながら、悪魔がニヤニヤして聞いてきた。
「こんなところに閉じこもってちゃあ、好きな絵も何も見れないんじゃあねえか?」
「娯楽は色々と試したからね、今はゆっくりしたい気分なんだ。今の趣味はレース編みと刺繍なんだが、なかなか時間を潰せるよ。大丈夫、心配しなくてもこの生活に飽きたらまた旅でもするさ。城を持つのは夢だったんだ。不死身の化物といったら、城に住んでいるものだろう? 僕は化物じゃないけど。そういえば僕、来週で百六十歳なのだけれど」
「ああ、もちろん知ってるぜ」
「まあ、君は知っているだろうね。そうじゃなくて、君は? 君には誕生日というものはないのか?」
「ねえな。特定の日時から存在し始めるってものじゃねえんだ、悪魔は」
「そうなのか。……いったいどうして、そんなに熱心に僕を見つめるんだい?」
「おめーが俺に興味を持つなんて、珍しいと思ってな」
「そうだったかな」
 花京院は少し首を傾げて今までのことを思い出してみた。永遠の命をどう生きるかということばかり考えていて、この悪魔のことを考えたことは、確かにあまりないかもしれない。
「君のことは、ただ悪魔だとしか思っていなかったからなあ。でもここまで来ると、もう友人と呼んでもいいのだろうか? 気を許しすぎかな?」
「気を許されたって、俺はただおめーに『まだ死にたくならねえか?』って聞くだけだぜ」
「そうか。じゃあ承太郎、僕と友達になってくれないか」
「いいぜ」
 承太郎はふっと、いつもよりかなり優しい笑みを見せた。花京院も柔らかく笑い返した。チェスは僅差で承太郎の勝利だった。
 花京院はその城で五十年ほど楽しく過ごした。その間に花京院は長編小説を八本書きあげ、漫画を四本完結させた。俳句もずいぶんと読んだ。インターネットは戸籍がないとできなくなっていたから、図書館のパソコンでそれを匿名の投稿サイトにアップした。都会では図書館に入館するときにも、もう通行証を求められるから、田舎でよかったと花京院は心から思った。
 城を手放したのは、事件が原因である。強盗が入った。眉間を撃ちぬかれた。けれど死ななかった。強盗たちはおおいに怖がり、花京院の体に何発もの鉛玉を浴びせた。花京院は身ひとつで城から逃げ出し、山奥で一人で銃弾を摘出し、そうしてそのまま次の町に向かった。

 花京院が三百歳になる頃には、人々は地球を飛び出し、宇宙で生活するようになっていた。安全で居心地のいいスペース・コロニーに移住する人が増え、花京院は身の振り方を考えなければいけないことになった。とはいっても、完全管理社会であるスペース・コロニーでは生活できないだろう。
 地上は大きく二つのカーストに分けられていた。未だ美しいままの土地で暮らすことのできる最上ランクの人間と、環境汚染で荒廃した土地で生きるしかない底辺の人間だ。中流以上の人間は、そのほとんどがもう地球に残っていない。
「どうするんだ、花京院? 素性を詮索されない最低の社会で生きるか、それとももう死ぬか?」
「死ぬのだけはありえないね。うーん、上流階級の社会に何とかして入り込むすべはないだろうか? スラムで生活するのも悪くはないんだけど、ああいうところはご飯がおいしくないんだ」
「いいことを教えてやるぜ、花京院。俺は地獄じゃあかなりの上流階級の出なんだ。おめーが死ぬってんなら、俺と一緒にそこに入ることができるんだぜ」
「君の甘言になんか耳を貸さないよ。よし、こうなったら正直に言おう」
 花京院は今まで、危険な目にあったら即座に逃げることにしていた。息の根が止まるような状況に陥ったこともあったが、抵抗は必要最小限にして、とにかく逃げることで生き延びてきた。そういうわけで花京院は、人を殺したことがなかった。これから先も殺したくないので、兵士になる道は除外した。
 花京院は宇宙開発局の高官に会うことにした。アポイントメントを取ることはできないので、彼女が家から職場に向かう途中を狙った。ボディガードたちに銃を向けられて両手を上げながら、花京院は様々な分野の勉強をしてきているから雇って欲しいと訴えた。実際、ありあまる時間を使って勉強はずっとしてきていた。勉強は好きだ。できること、知っていることがどんどん増えていくのはとても楽しい。
 高官がそういったことは学校に要求しろと言ってきたので、花京院は正直に約三百年ほど前に卒業したのでどうしようもないと伝えた。そのまま自分が不死身であることも白状したが、ボディガードたちは精神病院を勧めてきた。花京院は彼らに撃ってみて欲しかったのだが、それは叶わなかったので、自分で自分の心臓を撃ちぬいた。頭にしなかったのは、経験上胸の方が自分で見ながら銃弾を摘出しやすいと知っていたからだ。
 高官は花京院の突然の行動に驚いたが、彼が本当に死なないので更に仰天した。彼女は花京院を車に乗せ、職場へ向かった。花京院はそこで身体テストと精神テストを受け、もう一度自分が不死身だと証明した。屋上から飛び降りてもみた。
 彼はほとんど全ての事実を包み隠さず話した。1970年代の生まれであること、世界中を旅して生きてきたこと。不死身になった原因も明かした。幼少期に悪魔と取引したからだと言えば人々は怪訝な顔をしたが、本当に花京院が死なないので信じざるを得なかったようだ。
 花京院は一つだけ、周りに隠し事をした。それは、悪魔が今でもちょくちょく自分の元に遊びに来ているということだった。花京院は、悪魔と出会ったのは取引をしたその一回だけだ、ということにした。あらゆる種類の人間から不老不死になる方法を聞かれたが、もう分からないで押し通した。
 花京院はとにかく、自分が人道的な扱いをされるよう要求した。待遇は普通の人間と同程度、人体実験は倫理的な範囲内で。上流階級のインテリジェンスの間では、それはあまり無茶な願いではなかったようだ。社会レベルが上がって物質的に豊かになれば、人々の精神も豊かになるものである。花京院は日々のランチは一人で食べていたが、三年目にはホームパーティに呼ばれるようになっていた。
 花京院がその目で見てきたものの中には、もう現存しないものも多くあった。
「本当にこの絵、実物を見たんですか?」
「ああ。もうデータしか残っていないなんて残念だ。有名な絵だからね、展示会の大トリになっていたよ。僕としては、それより入り口の方にある絵の方が好きだったけれど」
「どんな絵ですか?」
「ええとね……」

 花京院が宇宙開発局に勤めだしてから、承太郎が来る頻度が減った。花京院はこんなに他人と話すのは数十年ぶりだったので、それはそれで楽しかったのだけれど、久しぶりに花京院の家に来ていた承太郎にそれを言うと、彼はぶすっとした顔になった。
「どうした? 僕が死から遠ざかったので不満なのか?」
「おめーと死との距離はいつだって変わらねえさ。友達がたくさんできてよかったなあ、花京院?」
「ああ、とても楽しいよ。だけどそれで、君が遊びに来る回数が減るのは寂しいな」
「寂しい? なぜ?」
「なぜって、それは君が僕の一番の友人だからだ」
「悪魔が一番だって? 変わってるな、おめー」
「僕は死なないだけで、それ以外は普通の人間だ。そう思ってる。だけどまあ、少し悔しいけれど、どちらかといえば君に近付いていってるのも否定はできない。君が一番大事だよ」
「本当に?」
「本当に、ってどういう意味だい?」
 花京院は首を傾げた。この悪魔は何を言いたいのだろう?
「俺に何をされても一番か、ってことだ」
「僕に何かするつもりなのか?」
「別に、おめーに危害を加えたりはしねえよ。そういうことじゃなくて、友人以上のことをされても平気かって話だ」
「友人以上? 何を言っているんだ?」
「こういうことだ」
 承太郎はゆっくり、花京院に覆いかぶさってきた。人との関わりを避けていた花京院は、はじめ何をされるのか分からなかったが、唇を合わせられてようやく理解した。理解したが、抵抗する気は起きなかった。最後まで。

 花京院は宇宙開発局で特例の身分証明書を発行してもらい、ここ数十年で一番文化的な生活を送った。自分の能力を最大限に活かせるというのも楽しかった。花京院は人類の進歩に、確実に貢献した。そうして十年ほどのち、彼はテラフォーミング済みの、とある惑星に行くことになった。行く前に不安に思って、承太郎に聞いてみたことがある。
「地球でなくても、君は僕の元に来られるのか?」
「おめーが生きてる限り、それはマッチ棒を折ることより簡単だぜ」
「それはよかった」
 そうして花京院は地球を出た。うっすらとだが、二度と戻ってくることはないだろう、という予感があった。

 花京院が不老不死であることは、移住先の住人たちにも伏せられていた。当然といえば当然だが。そのことは中枢部のごく少数の人間しか知らず、花京院は惑星管理局の研究所からあまり外には出なかった。彼は政治分野には近寄らないようにしていた。なるべくトラブルからは遠ざかっていたかったし、自分の感性が今の人々とは大きく異なっている自覚もあったからだ。
 百二十年ほど、花京院はのんびりと暮らした。惑星管理局は計画的に地球との連絡を少なくしていき、今では地球時間で三年に一回という頻度になっていた。
 終わりは突然だった。ある日落ちてきた隕石にくっついていた未知のウイルスが猛威を振るい、数ヶ月で人類は絶滅した。ただ一人を除いて。
「まさかとは思うけれど、承太郎、君の仕業ではないよね?」
「違うぜ。俺はお前を誘惑することしかしてねえ」
 人々を埋葬し終わった墓地で、花京院と悪魔は話していた。
「しかし、これで星に一人きりになっちまったな」
「ああ。さて、どうしようかな」
「そろそろ死ぬか?」
「いいや、そんなことはしないね。なんとかして地球に戻ってもいいけど、この星でもう少しゆっくりしてもいいと思ってるんだ」
 花京院もすっかり不老不死っぷりが板についてきていて、何をするでもなくただ年月を過ごすのが苦痛ではなくなっていた。それに花京院には、これ以上ない話し相手がいるのだ。彼と体を重ねるのも楽しいし。
 そういうわけで、花京院はその星で一人で暮らすことにした。星は綺麗にテラフォーミングされていて、植物も動物もある程度無事だったので(ウイルスで死滅した動物もいたが、なぜか影響のなかった種類も多くいた)、花京院がのんびり生きていくのに不都合はまったくなかった。
 花京院は畑を耕し、ニワトリや山羊に餌をやって過ごした。それらの動物がだんだんに進化をしていくのを見るのも一興だった。宇宙船も一応メンテナンスを続けた。花京院が食べ物の次に大事にしたのは、カレンダー機能つきの時計だった。元々はデジタル式のものであったが、途中からアナログ式に作り変えた。地球時間で今が何年の何月何日なのか、それだけは常にしっかりと把握していなければならない。なぜかって? 分かっているだろう、誕生日を祝うためだ。
 承太郎はどうやら、ちょっと次元のズレたところからこっそりワインを拝借してきているようで、若いワインや2016年物という年代物まで持ってきてくれた。そうこうしているうちに、花京院の年齢は四桁に達した。はるか昔にどこかで読んだ本のようには、エイリアンはやってこなかった。
 花京院は記念すべき二千歳の誕生日に星を出た。地球製の宇宙船はとっくの昔に劣化してしまっていたが、花京院には知識と時間がたっぷりあったから、乗り心地のいい宇宙船を新しく作ることはあまり大変なことではなかった。
 彼はそうして宇宙に飛び出して行き、また旅の日々を送ることにした。その頃には承太郎ももう、常に花京院のそばにいるようになっていた。けれど彼は体の作りがこの世界のものではないようで、食べ物や飲み物は必要ないようだった。
「おめーももう、何も食わなくたって数百年は元気にやっていけると思うぜ。こっちに片足どころか首元まで突っ込んでっからな」
「だとしても僕は一日三食たべるとも。僕は自分を人間だと思っているし、もしもう違うものになってしまっているんだとしても、人間であった頃のことはしっかり覚えておきたいからね」
 花京院の身体も頭脳も年々冴え渡り、幼い時分、学校の帰り道に蹴って歩いた小石の形状まで、はっきりと思い出せるようになっていた。そうして花京院が自作の宇宙船に乗り、承太郎と二人で宇宙を旅して回っていた、あるときのことである。

 

 残念ながらその日は、花京院の誕生日ではなかった。が、実は初めて花京院と承太郎が出会った日であった。ドラマチックな出来事は、しばしば運命的に起こるものだ。
 そのとき花京院は、なんともよく分からない場所、というか磁場というか現象というか、そういったものに巻き込まれた。ブラックホールが近かった気もする。とにかく気付いたら、よく分からない地面の上を低空飛行していた。どこかの惑星に、こんなに接近した覚えはない。
 花京院は慎重に宇宙船を着陸させた。窓の外の風景を見て、助手席で鼻歌を歌っていた承太郎が身を乗り出した。珍しいことだ。花京院は計器で大気をチェックして、宇宙服を着込まずに外に出た。
 何しろ息ができるのだから、酸素はあるはずなのだと思うが、なぜか本当はどんな気体も存在していないような、独特な、というより妙な感じがする。ここは本当に『世界』なのだろうか?
「こいつは驚いたな」
 なんだか少し機嫌のよさそうな様子で、承太郎が隣に立った。
「ここに来たことがあるのか?」
「あるも何も、俺はここの生まれだ。ここは地獄だぜ」
「ええ?」
 花京院は辺りを見回した。黒っぽい岩が転がる荒れ地である。黒っぽい雑草がところどころに生えている。遠くには、黒っぽい森を抱える山も見える。空は黒っぽく曇っていた。
「なんだか陰気なところだな」
「まァこの辺は外れだからな。都心部はもっと活気があるぜ」
「都心部とかあるのか。いや、それにしたって、ここは本当に地獄なのか?」
「ああ、間違いない。おめーだって地球に戻ればそうだと分かるだろうぜ」
「だって、僕はまだ死んでいないよ。これから先だって死ぬつもりはまったくない」
「そうだな。おめーが死んだなら、俺はその魂を手にここへ来るつもりだった。だが宇宙のどっか、時空のひずみ的なアレに吸い込まれて、次元がズレたみたいだな」
「なんだそれ……。あ、そうだ、ここが地獄だっていうなら、君の生まれ故郷もあるのかい?」
「ああ。あっちの山を越えて、川を越えて、森を越えて、海を越えて、その他色々と越えた先にある」
「どのくらい離れているんだ?」
「俺の力で飛べば一瞬だ。歩いて行ったら十年くらいだろうな」
「そんなに近いなら歩いて行こう」
 花京院は数ヶ月かけて宇宙船を農耕機能つきの半自動車に作り直し、承太郎の生まれた地に向けて出発した。
「そういえば君、どうして僕の魂を欲しがったんだ? そもそもあの取引だって怪しいもんだ。僕と出会ったのは偶然だったのか?」
「いいや、違うね。俺は元々お前狙いだった。おめーの魂は前世の頃から手に入れたかったんだ。おめーは忘れちまってるみたいだが。しかしお前、とうとう死なずにこっちに来ちまったな。その点に関しては、俺も負けを認めるぜ。おめーを連れてこっちに来るっていう俺の目的そのものは達成されたわけだがな。それにしてもお前、本当に一度たりとも死ぬことを考えなかったな。いったいどうしてこんなに激動の、あるいは退屈な人生を生きられたんだ?」
「そりゃあ君、」
 花京院は承太郎の綺麗な顔を見てニッコリ笑った。
「君がいたからだよ」